【双葉社】
『スパイ大作戦』

室積光著 



 およそ「愛国心」という言葉ほど、こと日本という国において「正義」や「平等」「博愛」などといった抽象的な言葉と同様、声を大にして語れば語るほど白々しく、また胡散臭いものとして響いてしまうものは、他に例を見ないといってもいい。言葉そのものの意味としては、自分が生まれ育った国に対して誇りをもつという、けっして特別な感情ではないはずなのに、一部の右翼による過激な言動や、第二次世界大戦中の歪みきった思想統制といった、マイナスのイメージと結びついてしまっているのは、まさに戦前日本のすべてを否定することに根底をおいた戦後教育の賜物であるのだが、そのことによって、たとえば今の若い人たちが、オリンピックやサッカーワールドカップなどといった国際的イベントのときにだけ発露する上辺だけの愛国心しか抱くことができなくなってしまったのだとすれば、それは日本という国にとってはひとつの悲劇である。なぜなら、自分の国に誇りをもつことのできない人間に、国の未来はけっして担えないからだ。

 こうした日本の未来についての憂慮は、たとえば小説の世界においても、福井晴敏の『亡国のイージス』における自衛隊の存在への問題提起といった形で取り上げられてきたものであるが、今回紹介する本書『スパイ大作戦』においても、そのテーマの骨子においては共通のものがあると言うことができる。

「スパイ大作戦」というタイトルについて、まず思い浮かべるのはかつて放送されていた同名のテレビドラマだという人も多いだろうが、「なお、このテープは自動的に消滅する」という有名なフレーズで無理難題な指令が伝えられ、超人的な身体能力をもつメンバーたちが最先端の科学技術を駆使してその指令を遂行していく、一種のヒーローのようなかっこよさとともに語られるスパイものとは異なり、本書の中心人物である田畑明男は、一見するとどこにでもいそうなくたびれた中年サラリーマンでしかない。舞台は終戦から二十年後の昭和日本。アメリカとソ連との対立が冷戦構造という形で世界に影響をおよぼし、CIAやKGBをはじめとする諜報部隊が、人々の知らないところでまさに火花を散らしているような時代において、田畑明男は日本の工作員、スパイとしてひそかに活動をつづけてきた、ということになっている。

 スパイといっても、彼のバックには国がいるわけでもなく、それゆえに活動資金や給料を国から受け取っているわけでもない。田畑明男は戦時中には陸軍中野学校(日本の軍制史上唯一の、秘密戦要員を養成した機関)に属していたが、今はもうその機関は解体され、彼に指令を出す人間も存在しない。そういう意味では、彼の立場はあくまでしがないサラリーマンでしかなく、日本で暗躍しているCIAやKGBに流している情報も、どうでもいいようなものばかりという体たらくである。そう、孤立無援の戦いと言えば格好はいいが、本書における田畑明男の立場は、自分が本物のスパイだと妄想している一般市民とほとんど変わりない道化、戦後二十年以上もフィリピンで任務を遂行しつづけていたという日本兵と同様、時代遅れの堅物という立ち位置にあり、本書は基本的にそんな田畑明男と、どこかのんきで抜けたところのある他国の諜報部員たちが繰り広げるドタバタコメディである。

 重要な軍事機密とともに国外への亡命を希望しているソ連の科学者の意図が、じつは鬼女房から逃げ出すことにあったり、いかにも「私はスパイです」という格好で行動しているがゆえに、町の子どもたちの注目の的になってしまうCIAの工作員チーム、また無駄にナイスバディな女性が暗躍したりといった、ある種お約束とも言うべき要素を詰め込んで、物語のいたるところで読者の笑いを誘う本書であるが、そうした笑いを基本としながらも、そのなかにきわめて真面目で大切なテーマを語るのが著者の作品のひとつの特長である。本書では、たったひとりで一文の得にもならないスパイ活動をつづける道化として登場した田畑明男が、CIAとKGB、さらには超一流の殺し屋といった者たちを相手どって、他ならぬ自身の判断で戦いを挑むという展開であり、そこにははじめてまともなスパイとして活躍の場が与えられたという、ある種子どもじみた興奮もあるのはたしかだが、それ以上に重要なのは、彼を突き動かしているのが、滅私奉公という言葉に代表される、戦後日本においては時代遅れもはなはだしい「愛国心」から来ているという事実である。

 自分のやっていることが、最終的には日本の国益になる、という信念、さらには、そこに個人的利益や欲望を差し挟まないという利他主義の精神――そうした田畑の行動理念が、今回の一連の事件によって具体的な行動をともなったものとして読者の前に提示されたとき、物語の冒頭において、たとえば映画「007」シリーズに代表される、やたらと目立った活躍をしてみせるヒーローとしてのスパイ像に無闇に対抗意識を燃やし、本物のスパイというのは目立ってはいけないものだとうそぶく田端の独白は、たんなる妄想からひとつの信念へと昇華されることになる。そしてそのとき、本書が高村薫の『リヴィエラを撃て』のような、高いリアリティと人間ドラマで読ませるようなスパイ小説でも、また手嶋龍一の『ウルトラ・ダラー』のような、インテリジェンスの重要性を軸とした現代スパイ小説でもなく、あくまで冷戦時代に流行したスパイ小説のコメディという形でひとつの物語を書いた最大の意図が、じつはスパイ小説を書くことではなく、かつての日本人がたしかにもっていた、しかし戦後になって急速に失われていった、日本人の美しい精神を描くことにあったのだということに気づくことになる。

 あくまで誰にもその正体をさとられることなく、なかば妄想じみたたったひとりの戦いをつづけてきた田畑の姿は、たしかにフィリピンの残留日本兵の姿とダブるものがある。はたしてその孤独な戦いがどのような結末を迎えることになるのかは、ぜひとも本書を読んでたしかめてもらいたいところだが、本書を読み終えた読者は、きっと自分にとっての「愛国心」とはどういうものなのか、ということについて、あらためて自身の心に問い直すことになるに違いない。(2006.06.10)

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