【理論社】
『麦ふみクーツェ』

いしいしんじ著 



 自分の右手と左手を、勢いをつけて打ち合わせてみる。パンッと小気味のいい音がする。このなんとも簡単な動作で、私たちの両手は音を生み出すことができる。そしてその瞬間、私たちは、自分たちの手が何かをつかんだり運んだりするための道具ではなく、一種の打楽器であることを知る。

 大だいこや小だいこ、シンバル、ティンパニなど、打楽器と呼ばれる種類のものは数多くあるが、これらは基本的に弦楽器や管楽器のように複雑な音階を奏でるたぐいのものではなく、それゆえに、木琴やベルリラといったごく一部の例外をのぞいて、打楽器単体では音楽として成立しない、という短所がある。何かを叩けば音が出る。このきわめて単純な原理を最大限に発揮できるよう進化していったのが打楽器であるが、このある意味ひたむきで、融通の利かない楽器には、あるひとつの部分ばかりがやたらと突出してしまい、それだけではからずも目立ってしまう人、何をやらせてもそれなりにこなせる器用な人というよりも、むしろあるひとつのことにとことんこだわる、不器用で頑固一徹でありながら、どこか朴訥とした親しみを感じさせるような人間のイメージがよく似合う。そして、そういう人ほど、じつは人間個人の力の限界について、誰よりもよく知っていたりするものだ。そう、打楽器がそれ単体ではメロディーを奏でることができないように。

 およそこの世に、打楽器でないものなどなにもないのだよ。

 本書『麦ふみクーツェ』という、どこか遠い国の童話かおとぎ話を思わせる物語について、語るべきことはたくさんあるが、まずは本書の登場人物を紹介しようとしたときに、ふと気づいたことがある。この物語の登場人物は、主人公をふくめた誰ひとりとして、正式な名前を持っていない。人物だけではない、舞台となる土地や町、建物、鉄道、その他あらゆる固有名詞が、じつに注意深く読者の目から隠されているのだ。この抽象性の徹底が、たとえば村上春樹の諸作品に特徴的な、どこか非現実的で、いかにも何かが喪失されたような雰囲気を生み出しているのは間違いないが、そんななかにあってほぼ唯一、名前らしい名前をもっているのが「クーツェ」である。

 クーツェとは、物語の語り手である「ぼく」の目にだけ見える幻の人物であり、小さい頃の「ぼく」が夢の中の黄色い土地で、麦ふみをしているクーツェと出会って以来、現実世界の天井裏でもときおり見かけるようになったという、正体不明の存在である。「ぼく」がクーツェと会うとき、彼はいつでも横ばいになって麦ふみをしている。そして麦ふみをしながら、「ぼく」の問いかけに意味深な言葉を返すのである。不思議なことに、クーツェの麦ふみの足音は、たとえその部屋のなかにいないときでも、また「ぼく」が成長してその姿を見ることができなくなったあとも、当人の意思とは関係なく耳に響いてくることがある。まるで、麦ふみという農作業のためではなく、地面をリズムよく踏み鳴らすことこそが目的であるかのような、その、とん、たたん、とん、という音――それが何を意味するのかはともかく、クーツェの足踏みの音がするとき、まるでそれに呼応するかのごとく、物語はさまざまな音や音楽に満たされていく。

 ほんの小さい頃に祖父と父とに連れられて、都会から南洋の島の、船乗りばかりが住む港町に移り住んできた「ぼく」が、かつて一流のティンパニストであり、町の田舎楽団を一流の吹奏楽団へと導いてきた祖父の影響を受けて成長し、やがて自身も指揮者としての道を歩みだす――そういう意味では、これまで体は人一倍大きいが、どこか自分が場違いな場所に立たされていることに自覚的な、目立たない存在だったひとりの少年の成長物語であり、祖父や父からの自立の物語でもあるのだが、後に出会うことになる女性「みどり色」とのことを考えれば、一種の恋愛物語でもあるし、また小さい頃に死んだとだけ聞かされた「ぼく」の母親のことや、なぜこの島に移り住んできたのか、といった謎に注目すれば、ミステリーだと位置づけることさえできる。このようにさまざまな物語としての要素をもっている本書であるが、それ以上に重要なのは、本書が「ぼく」の一人称で語られていながら、「ぼく」こそが主人公の物語である、という定義づけが非常に希薄な作品として書かれていることである。

 じっさい、本書のなかには「ぼく」にまつわる出来事よりも興味深いサイドストーリーが多い。たとえば、航海中にある船員が出会ったという恐竜の話、雷に貫かれた学校の用務員が作曲した、さまざまな打楽器系のアンサンブル、ねずみが空から降ってきたというとんでもない事件、町中の人をだまして消えたセールスマン、集合と素数の関係にとりつかれた数学者の父、盲目の元ボクサー、成長が止まってしまった一流のチェリスト――物語のなかで「ぼく」は、趣味のひとつとして興味深い新聞記事のスクラップをしているが、その趣味を反映するがごとく、「ぼく」はけっして本書の主人公として動くのではなく、あくまでさまざまな事件を収集するだけでしかない、という位置に長く立ち止まっているように見える。それはまるで、さまざまな楽器で奏でられるオーケストラにおいて、ほんの数度鳴らされるだけの打楽器のような立場だ。だが、もしその打楽器が適切な場所で鳴らされなかったとしたら、その瞬間、オーケストラの奏でていた音楽という名の物語は破綻してしまうのである。

 熟練のティンパニ奏者のように、ぼくは待つことを学ばなけりゃならない。それはなかなかにむずかしい。ばかといわれても、へんてこ呼ばわりされても、けっしてばちを捨てず、ステージのいちばんうしろでじっと立っていること。そのときをきき逃さぬよう、ちゃんと耳をかたむけて。

 きっと私たちは、その人生において誰もが打楽器奏者なのだ。たとえそれまでの人生において何ひとつ輝くことがなかったとしても、いつか必ず、その人自身が主役となれるパートがやってくる。本書のなかでは、けっこう大勢の人がその物語の途中で死んでしまったりするのだが、では彼らの生はまったくの無意味だったのかといえば、けっしてそんなことはなかった。そういう意味では、本書は数多くの打楽器を集めて奏でられる、打楽器オーケストラの物語であり、またそれだけではただの騒音でしかない、人生という名の音に、音楽という大きな意味を与えるために生まれた物語であると言うことができる。登場人物のほとんどが、名前らしい名前をもっていない、という点も、そう考えればすべてが納得いく。

 私たちひとりひとりは無力で、何の力もない存在かもしれないが、それでも何人もの人たちが力を合わせれば、そこから思いもよらない何かが生まれてくる――本書を読んで、なにか救われたような気持ちになる方がいるなら、それは本書が素晴らしい、それこそ登場人物の誰ひとりが欠けても成立しない物語であることを、無意識のうちに見抜いているのである。(2004.03.15)

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