【新潮社】
『青猫の街』

涼元悠一著 
(第10回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作) 



 たとえば、インターネットの検索エンジンで個人的な日記を載せているホームページをサーチしてみると、そのヒット件数のあまりの多さに呆然となってしまうことだろう。そう、本当は、誰もが自分自身のことを表現したがっているし、自分のことを他人に知ってもらいたいと思っている。インターネットが個人のレベルにまで浸透してきたその背景には、もしかしたら、自分がこの世界で確かに生きてきたという証拠を残したい、という現代の人々の切実な願いがこめられているのかもしれない。

 本書『青猫の街』では、時代背景がはっきりしている。1996年11月――『2001年宇宙の旅』の世界では、約二ヶ月後に人工知能「HAL9000」が誕生しているはずの時代の東京で、ひとりの男――本書では「A」と名づけられている――が失踪する。「A」の母親から連絡を受けた友人の神野俊幸は、Aのアパートで、今ではもはや化石に等しいNECのパソコンPC-9801VMだけがポツンと置かれているのを発見する。たんに黙って引っ越しただけ、と考えるにはあまりに不自然なその部屋の状況に興味を覚えた神野は、「A」の失踪の原因について素人ながら調べはじめるのだが、どうやら「青猫」という単語がその重要な鍵を握っているらしいことに気づく。そしてそれに伴って、いろいろな人間が神野のまわりで動きはじめる。はたして「A」はどこへ消えたのか。そして「青猫」とはいったい何なのか……。

 なんとなくミステリー小説の紹介文のような文章になってしまっているが、「A」の調査、といったところで、中堅どころのコンピュータソフトハウスで働くSEの神野にできることなどたかが知れているし、神野自身、自分の勤める会社をほっぽり出してまで「A」を探し出そうなどと思ってもいない。足を使った調査は、たまたま出会った人のいい探偵(なんと意味深なシチュエーションだろう)、佐伯啓次郎にまかせて、神野はもっぱら自前のパソコンを駆使して情報収集をする。

 1996年11月、といえばおそらく、それまで研究機関や企業中心だったインターネットが、徐々に個人に対しても開かれはじめた頃だ。本書の特記すべき点のひとつは、そういったインターネットやパソコン通信の技術、当時の秋葉原の様子や流行したアニメ、そしてパソコン本体の隆盛などを、具体的な名称もまじえてじつにリアルに書き表していることだろう。午後11時からはじまるNTTのテレホーダイの時間帯にインターネットに接続し、検索エンジンを駆使して失踪人や「青猫」に関するホームページを次々とサーチしていく。また、重要な情報を知っていそうな人に対し、素人を装ったメールを出す――パソコンさえ持っていれば、おそらく誰にでもできそうな調査をつづける神野の姿に、等身大の自分の姿を重ねてしまう読者は、きっと多いに違いない。

 それにしても、ほんの数年前のリアルな東京の様子を再現した本書に漂う、この居心地の悪さ――あるいは閉塞感、と言ったほうがいいのかもしれない――は、いったい何なのだろう。見晴らしのいいビルの屋上で、佐伯と新宿副都心の景色を見ながら、神野はあることに気づく。

 世界はもう、完成しているのだ。
 それはたぶん史上最低の製品だ。基本設定に責任を持つ者はなく、その場しのぎの仕様変更をてんで勝手に繰り返してきた。ソースコードは複雑にからみあい、ドキュメントもなければ説明行もない。
(中略)
 僕らが託されたのは、整備と修正、欠陥除去の日々だ。辞退する余地も、抗議する権利もない。誰かがそれをやらなければならないことは、僕らがいちばんよくわかっているのだ。

 ネットワークが発達し、パソコン一台で文字どおり世界中とつながることができる、私たちの住むこの世界。その一方で、ホームレスの姿がもはや風景の一部となり、新聞にさえ載らないような失踪や自殺が相次いでいる、この世界。あと数年で二十一世紀を迎えようとしているにもかかわらず、そこには子供のころに夢見ていた、すばらしい未来の姿はどこにもない。そのような世界のなかで、「青猫」に課せられた役割――そして、本書の冒頭にある断り書きと、横書きという、かつて見たこともないような本の体裁を考えたとき、おそらく読者は勘付くことになる。この物語そのものが、今も生まれては消えていく膨大な量のデータのひとつでしかないのだ、ということに。

 インターネットの世界においても、次々とホームページが生まれては消えていく。その様は、あるいはこの地球上で生まれ、繁殖し、年老いて死んでいく私たち人間の姿に似ていると言えるのかもしれない。本書を読むと、私たちを待ちうけている二十一世紀は、いったいどんな世界なのだろう、と考えずにはいられなくなる。(1999.05.01)

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