【双葉社】
『ランチのアッコちゃん』

柚木麻子著 



 人間、生きるためには食べなければならない。これはべつに人間に限ったことではなく、およそ生物である以上は、何らかの形で栄養を摂取して生命維持に努めなければならないということであるが、おそらく人間だけが、「食べる」という行為に栄養摂取以上の意味を見いだした生き物だと言うことができる。生きるために食べるということは、逆に言えば食べなければ死ぬということだ。だが、死なないために食べるというだけでは、日々の糧を用意するという意味での「おさんどん」で終わってしまう。私たちがたんなる「生物」としてではなく「人間」として生きることは、じつは日々の食事を「おさんどん」としてとらえるか、あるいは「料理」として楽しむかという、単純なようでいて深い違いから生まれるのではないか――今回紹介する本書『ランチのアッコちゃん』を読んだときに、ふとそんな感想が頭をよぎったことを覚えている。

「食べることは生きること……。一杯の温かい飲み物が人と人の心を繋ぐんですねえ」

(『夜食のアッコちゃん』より)

 四つの作品を収めた本書のうち、表題作『ランチのアッコちゃん』と上述の引用元である『夜食のアッコちゃん』は、派遣社員として働いている澤田三智子が「アッコ女史」こと黒川敦子の、それまで知らなかった一面に触れるという流れで物語が進んでいく。黒川は表題作においては、小学生用の教材を扱う小さな出版社の営業部長。いつもそっけない態度で淡々と仕事をこなす優秀な社員で、社長すら一目を置く四十五歳の独身女性の彼女に、どういうわけか一週間「ランチのとりかえっこ」をしようと持ちかけられた三智子が、持参の弁当をアッコ女史に渡す代わりに、彼女が毎週ルーチンワークとして通っている店の決まったメニューを食べに行くことになる、というのがおおよそのあらすじである。

 本書を読み進めていくとすぐにわかることではあるが、そのタイトルにもなっている「アッコちゃん」という呼称には、じつはふたつの意味がある。ひとつは会社員としての黒川に対する呼び方であり、これは「つやつやの黒いおかっぱ頭が、某大物歌手を思わせる」ことと、彼女の「敦子」という名前をかけたもの。当然のことながら、そこには愛着というよりは、いわゆる「お局様」的存在の彼女に対する揶揄という意味合いが強く、誰も面と向かってそんなふうに呼んだりはしない。何より会社のなかで、黒川は優秀な社員として皆から畏れられており、それは派遣社員である三智子も同様である。

 だが、その黒川の代わりにランチメニューを巡ることになった三智子は、その先々のオーナーや客たちが、親しみをこめて彼女のことを「アッコちゃん」と呼んでいることに気づく。

「彼女にぴったりだろ。ここの常連は皆そう呼ぶよ。『ひみつのアッコちゃん』みたいに、彼女はたくさんの顔を持っているからね。――」

(『ランチのアッコちゃん』より)

 ふだん会社で接するときには想像もしていなかった、黒川のもうひとつの顔――そこには、節約のために日々弁当を持参する三智子とは、ある意味で対極に位置する世界がある。本書で登場するランチは、けっして特別なものではない。あくまで会社員の腹を満たすための「ランチ」にすぎないのだが、三智子の弁当が「おさんどん」であるとするなら、誰かからふるまわれる――あるいはそれ以上の意味をもつアッコ女史のランチは、「料理」ということになる。そしてこの「料理」という言葉において重要なのは、料理そのものというよりは、それを振舞う人や、それを食する人たちとのつながりである。じっさい、三智子のランチはあくまで自分ひとりの腹を満たすためだけのものであり、言ってしまえば自分だけの世界で完結するものだ。だが、アッコ女史との「ランチのとりかえっこ」をつうじて、人と人とがいとも簡単に結びついてしまう「料理」の世界が広がっていることに気づく。

 それは、あるいはあたり前のことであるのかもしれない。だが、日々の生活のなかで、私たちはともすると、そうした「あたり前」が見えなくなってしまうことがしばしばある。四年間つきあっていた恋人に振られてしまった三智子は、まさにその状態にあったわけであり、ともすると自身の内側に向かってしまいがちな視点を逆転させるという意味で、アッコ女史の計らいは抜群のものがあったと言える。

 そして、そんな食べることをつうじて世界が広がっていくというテーマは、表題作以外の作品においても引き継がれている。『夜食のアッコちゃん』では、ポトフの移動販売をはじめたアッコ女史に再会した三智子が、試験をかねて彼女と一緒に深夜のポトフ販売を手伝うという内容で、そこにはランチのときとはまた違った、しかし何かうまいものを食することを欲する人たちとのつながりが書かれている。残りの二作『夜の大捜査先生』と『ゆとりのビアガーデン』については、アッコ女史と三智子のコンビはいったん物語の主流から離れ、また別の人物たちの物語が展開していくのだが、他ならぬ食べることで人々がつながっていくこと、たんに腹を満たすだけではない「料理」を楽しむというテーマは共通している。とくに『ゆとりのビアガーデン』は、そのタイトルにあるとおり、食べるというよりはビールを飲むことが主流となっているのだが、いっけんすると高校の文化祭レベルの思いつきが、それこそ八方ふさがりな現状を変えていく可能性を示しているという意味で、さわやかな読後感にひたることのできる内容となっている。

 生きるために食べるという考えは、生物として間違っているというわけではないが、そうなるとそもそも「生きる」こと自体に倦み疲れてしまった人たちにとっては、自身が生きることにつながる「食べる」行為もまた、苦痛でしかなくなってしまう。生きるために食べるのではなく、食べるために生きる、いや、食べることがそのまま「生きる」ことへとつながっていく「料理」――けっして大それたものではない、しかしこのうえなく素敵なものをもっているアッコ女史に、きっと読者は本書のタイトルの意味を、もう一度再認識させられることになるだろう。(2014.02.16)

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