【ヴィレッジブックス】
『狼たちの月』

フリオ・リャマサーレス著/木村榮一訳 



 私たち人間は意思疎通の手段として言葉を発明し、言葉をもちいてお互いにコミュニケーションをとる生き物であるが、その言葉が、ときに何の役にも立たなくなるような状況というのが、世の中には少なからずあるということを、私たちはよく知っている。たとえば、喜びや悲しみ、怒りといった強い感情に支配されているとき、その自身の感情を言い表すのにどんな表現を駆使し、どれだけ多くの言葉を費やしても、そのすべてを相手に伝えるのは難しいと感じることがある。

 それが、コミュニケーションの道具としての言葉の限界であるのか、あるいは私たちが言葉を使いこなせていないだけなのかはわからない。だが、たとえそのいずれであったとしても、そこには少なくとも言葉を使い、意思の疎通をはかろうという前向きな思いがあることだけはたしかだ。それは、対話を試みる者たちが、言葉のやりとりをすることで現状を変えていくことができる、大袈裟な言い方をすれば今をより良くすること、自分がその人生においてとにかく前に進んでいくことができるという思いがあるからこそのものである。

 ゆえに、言葉を重ねていくという行為が、現状を何ひとつ変えることができないとわかったとき、人々は言葉の無力さを噛みしめながら沈黙するしかなくなる。だが、それはけっして日常ではないし、また日常になってしまってはいけない。言葉の無力さを常に肯定し続けなければならない世界――それは、自分以外の「人間」と対話すること、言葉で意思疎通をすることに意味がある世界を否定することに他ならないからだ。そうなってしまうと、周囲にどれだけ人間がいたとしても、その人は常にひとりぼっちということになってしまう。それははたして、人として生きていると言えるのだろうか。

 ぼくは慰めの言葉が見つからず、扉のところに立ち尽くしている。自分のことよりも家族のほうが心配だと言いたいが、うまく言えない。この血なまぐさい、永遠に続く悪循環をどう断ち切ったらいいのか分からない。
 だからぼくはくるりと背を向けると、何も言わずに出てゆく。

 本書『狼たちの月』に登場するのは、四人の敗残兵である。第二次世界大戦の前哨戦とも位置づけられているスペイン内戦――イタリア・ドイツのファシズム政権の力を借りたフランコ将軍率いる反乱軍の北部進撃は着実に進み、それとともに内戦は激化のいっぽうをたどる。本書の舞台となるアストゥリアスもまた、反乱軍の侵攻の対象となった地方であり、激しい戦闘がつづけられていたが、ついに共和派の前線は潰走、敗残兵たちは山の中に身を隠すことを強いられる。語り手であるアンヘルをはじめとする四人も、そうした経緯で逃亡することになった敗残兵たちであるが、まさに反乱軍に占領された村に自身の家族がいることから、共和国軍の兵士というよりは、ファシズム政権に反対する民兵に近い位置づけであることがわかる。だが、そうした歴史的背景についてはほとんど語られることはない。そこに書かれているのは、治安警備隊員たちの目を逃れ、ひたすら身を隠しながら、生きるために民家を襲ったりバスを襲撃したりという、およそ人間らしいとは言いがたい逃亡生活の様子である。

 彼らがどのような立場の人間なのか、物語の当初においてそれを類推させる情報はほとんどない。後に、語り手のアンヘルがもともと小学校の教師であったことがわかる程度であるが、おそらく四人が四人とも、専門職としての軍人ではなく、もともと他の人たちと同様、普通の市民として暮らしていただろうと想像するのは、それほど難しくはない。そして、そんな彼らが武器をとり、敵と戦うことを決意したからには、そこにはそれ相応の理由なり心情なりがあったはずだし、またそうしたものがなければ、命をかけて戦うことなどできはしない。だが、そうした部分について本書がまったく触れようとしないのは、たんに彼らが敗残兵であり、語る資格を有していないととらえているのではなく、今の彼らにとって、そうしたことを言葉にして語ることに、何の意味も見出せないからと考えたほうが妥当である。

 本書は大きく四つの章にわかれており、アストゥリアス地方における共和派の軍の敗走から九年の歳月が流れていくが、時が経つにつれて彼らをとりまく状況はますます悪化するばかりである。潜伏当初は、また時期を見て再結集するという希望もあったのだが、その二年後には反乱軍の勝利で内戦の終結が宣言され、国境は封鎖、共和国軍やそれに組していた団体、組織などの弾圧がいっそう激しくなり、国内に身を隠していた敗残兵たちは、国外に亡命する手段を失ったまま、いつ終わるともわからない逃亡生活を強いられることになる。治安警備隊員に捕まれば、ひどい拷問の果てに殺されてしまう。だが、国の外に出ることもかなわない。アンヘルたちの置かれた立場はある種の極限状態にあり、生きのびるためには人としての生活そのものを捨てるしかない状態と化している。ただひたすら、殺されないために生きる――そんな彼らに、人と対話するための言葉がどれほど重要だと言えるだろう。

 それゆえに、本書全体を支配しているのは、沈黙と静寂の重さである。そして、明るい日差しのあるうちは動くことができず、夜になってからはじめて行動できるようになる生活は、彼らを少しずつ生者であることから遠ざけている。彼らは夜の世界の住人であり、夜行性の獣であり、そしてある意味で死者でもある。いや、たしかに彼らは生物学的には生きているのかもしれないが、何より言葉で語ることの結果に何の意味もない世界に生きる彼らにとって、自分が人間であるという意識すら、意味のないものであったとしてもおかしくはない。しかも、そこにはただ「生きのびるため」という理由しかないのだ。

 弾圧や迫害は彼らだけでなく、彼らの家族にもおよぶ。だが、それでもなお彼らにはどうすることもできない。そして、時とともに彼らの家族、彼らのことを知る人たちは、まるで彼らが人間でなくなっていくのと呼応するかのように、しだいに人間としての彼らの存在を否定し、忘却していくような方向に動いていく。ただ、アンヘルたちを取り囲む山の自然、彼らを見下ろす夜の気配だけが、変わらず彼らを包み込んでいる。前作『黄色い雨』のなかで、人が人としての「死」を得るためには、自分以外の人間が必要だと書いたが、誰も彼らの生死に人間としての視線を投げかけられないような状況という意味で、本書もまた孤独と悲壮感に覆われており、そして同じように、どこか美しい。それはあるいは、彼らを見下ろす夜の美しさなのかもしれない。

 本書のタイトルにもなっている『狼たちの月』というのは、おそらく、四人の敗残兵の行く末を知るものが、夜の月だけである、という意味であり、またそれが太陽でないという意味を強調するものでもある。人が人でいられなくなる状況、言葉が意味を失くし、それゆえに沈黙と孤独だけが寄り添う友となった者たちの末路を、ぜひとも見届けてもらいたい。(2008.04.01)

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