【扶桑社】
『幸運は誰に?』

カール・ハイアセン著/田口俊樹訳 



 一生に一度で良いから――というより、一生に一度で充分なのだが、宝くじの一等に当たらないものかと思い、毎年年末ジャンボ宝くじなどを買ったりする私であるが、宝くじの一等に当選するというのが確率的には間違いなく幸運に値するものでありながら、そうした思わぬ大金を手にしてしまうことが、その人にとって本当に幸運であり、また幸福をもたらすものであるのかどうか、という点においては、一概にそうだと言い切れないものがあることをよく知っている。だが、「よく知っている」とはいうものの、そんな幸運に生まれてこのかた預かったことのない私としては、大金を持つことで招くトラブルなどというものについて、しっかりとした想像力をはたらかせるのが難しいというのもまた事実で、けっきょくのところそれは「贅沢な悩み」ということで片づけられてしまう。おそらく、宝くじの当選金額が大きければ大きいほど、そんなふうに思ってしまうものなのだろう。

 宝くじ当選をはじめとして、億単位の現金にかかわる小説として、たとえば森純の『八月の獲物』などが頭に浮かんでくるのだが、本書『幸運は誰に?』もまた、アメリカで発行されているロトくじの当たり券が巻き起こす群像劇という要素の強い作品である。当選金額2,800万ドル(約34億円)というべらぼうなくじの当たり券を引き当てたのは、ジョレイン・ラックスという黒人女性。抜群の容姿と意志の強さをもっていながら、なぜかろくでもない男とばかり付き合うことになってしまう、動物病院に勤める看護師であるが、当たり券はじつはもう一枚あり、しかもその所有者が、ネオナチを気取る反動主義者と障害者ステッカーを偽造して金儲けをしている悪党ふたり組みで、本来ならその当選金額を分け合うことになるはずなのに、それに飽きたらずもうひとつの当たり券も奪い取ってしまおうと欲を出したことが、そもそもの発端となる。

 ふたつの当たり券があり、その所有者がいて、その幸運にあやかろうと彼らに近づいてくる人たちがいて、さらにその人たちと関係の深い人物たちが物語をいっそう複雑なものとしていく――物語の大筋という点で本書をとらえたとき、そこにあるのは、一度悪漢たちに強奪された当たり券を、ジョレインたちが執念の追跡のはてに取り戻すという明快なストーリーがあるわけだが、本書の重要なところは、そのタイトルにもあるように、巨額の現金に換えることができる当たり券という名の「幸運」をめぐって繰り広げられる悲喜こもごもの人間ドラマであり、その結果として、誰がどのような幸運を掴み、逆に誰がどのような不運をかこつことになったのか、という点にこそある。

 たとえば、ジョレインとともに当たり券を奪還する手助けをすることになるトム・クロームは、<レジスター>社という小さな地方新聞社の優秀な記者であるが、彼と宝くじとのそもそもの関わりは、宝くじ当選者であるジョレインへのインタビューという、彼としては退屈極まりない仕事のためだった。だが、トムがそのような形で物語のメインに絡んでいくいっぽうで、たとえば彼の上司であるシンクレア、彼の妻で舞台女優でもあり、現在離婚協議中にあるメアリー、その協議を進めている弁護士のディック、彼の不倫相手であるケイティ、そしてケイティの夫で裁判官であるアートといった登場人物たちが、それぞれの思惑でさまざまな行動をとり、その結果が物語のメインに微妙な影響をおよぼしていく。

 複数の登場人物を主体とする複数の物語が、それぞれ影響しあってより大きな物語の流れ――二枚の宝くじを中心とする物語を形づくっていくという構成が見事な本書であるが、そのなかで一貫しているのはある種のユーモア感覚である。たしかに、2,800万ドルというのはとてつもない大金で、それこそ死人の山が出たとしても不思議ではないものであるのだが、本書のユーモアが物語にとって大きな救いとなっている。そもそも、彼らが執拗に追い求めているものは、けっきょくのところただの紙切れでしかないのだ。そして、その紙切れが引き換えてくれる現金にしたところで、しょせんはあぶく銭に過ぎない。本書の著者は間違いなく、宝くじがもたらす現金の性質をよく理解しているし、だからこそ、本書のタイトルにある「幸運」が、たんに宝くじがもたらす現金を直接指すわけではないことが、本書を読み進めていくと見えてくるようになる。

 自分に都合の悪いことはすべて黒人かユダヤ人かアメリカ政府の陰謀にしてしまう筋金入りの屁理屈の達人であるボード・ギャザーが、ジョレインの当たりくじを強奪するさいの言い分は、よくよく考えてみれば被害妄想丸出しの陳腐極まりないものでしかないのだが、当の本人がその陳腐な責任転嫁を真実だと信じて疑っていない、という点が、本書のユーモア感覚をさらに強固なものとしている。悪党ふたり組みに限らず、本書に登場する人たちは、じつのところ誰もが思い込みの強すぎる一面をもっているのだが、その最たる例が、ジョレインの住むフロリダ州グレンジという小さな町である。キリスト教にかんするさまざまな奇蹟を観光名物としているその町の住人たちは、当然のことながらジョレインの宝くじの当選もその町の奇蹟の信憑性を高めるビッグニュースとして利用する気まんまんだったりするのだが、物語が進むにつれて、あくまで観光名物でしかなかった奇蹟を頭から信じてしまった登場人物が次々と町に入り込んでくる、という事態になっていく。

 宝くじがもたらす現金が、その持ち主に幸運を運んでくれるという強い思い込みをもってしまった人たちが、その幸運のもととなっている当たり券をめぐって繰り広げるユーモアたっぷりの群像劇――その物語を回している力が、人間個人がもたらす力というよりは、いささかできすぎた偶然の産物であるというのも、本書の中心にあるのが宝くじの当たり券であるからこそ納得のいくものである。そんななか、一度は宝くじの当たり券という「幸運」を手にしたジョレインが、不運にもその当たり券を奪われ、しかし不屈の精神と努力で再び取り戻すという過程は、宝くじという偶然を必然に変えるための儀式のようなものだったと言える。もちろん、そこにたどり着いたのはめぐり合わせの良さもあったのだろうが、たとえばトム・クロームの助けがなければけっして成し遂げることのできなかった「奇蹟」でもあるのだ。

 宝くじに当選する確率はこの上なく低いものであるが、もし宝くじを買わなければ、その可能性はゼロである、という事実――それは、しかるべき目的のためにまず行動を起こさなければ、何事も成し得ることができない、ということでもある。そういう意味で本書は、たんに面白いだけでなく、何かを変えていくための一歩を踏み出す勇気を与えてくれる作品としても、高く評価することができる。(2007.05.22)

ホームへ