【早川書房】
『恋』

小池真理子著 
第114回直木賞受賞作 



「あなたは恋をしたことがありますか?」

 もし誰かからこんな質問を受けたとしたら、あなたは何と答えるだろうか。おそらく、大部分の人たちは「ある」と答えるのではないかと思うのだが、そこからさらに踏み込んで、「恋とは何ですか」と訊かれたとき、あなたははたして、きちんとその問いに答えることができるだろうか。

 誰もが恋にあこがれ、誰もが恋をしたいと望んでいる。だが、よくよく考えてみれば、「恋」というものほど曖昧で、実体のない、不確かな存在はないとも言えるだろう。にもかかわらず、誰もそのことを指摘しないまま、ただマスメディアが大量生産する、いかにも甘酸っぱい「恋」の雰囲気ばかりが、さも大切なものであるかのように取り扱われているように思えるのは、はたしてもてない男のひがみにすぎないのだろうか。恋をするのが悪いことだと言うつもりはない。だが、まるで恋をしなければ人間ではないと言わんばかりの今の世の中で、もし私たちがたんに、「恋」というもののうわべだけを見て、自分自身でも気づかないままに恋をしたと錯覚したり、恋をしたいと思いこんでいるだけだとするなら、それはちょっとした悲劇だとさえ言えよう。

 本書のタイトルはズバリ『恋』である。その、あまりにもストレートな表題から伝わってくるのは、ひたすら「恋」というものの本質に迫りたい、という著者自身の欲求に他ならない。恋とは何なのか、人はなぜ誰かに惹かれずにはいられないのか――しばしば肉体的な快楽とは上位にあるもの、精神的な領域であり、神聖な結びつきを象徴するものとして使われる「恋」の姿を、著者はある女性によって引き起こされた事件を描くことで、けっしてうわべだけではない、ありのままの「恋」の姿を読者の前にさらけだすことに成功した。

 一九七二年二月二十九日――日本じゅうが連合赤軍の浅間山荘立てこもり事件の結末に目を向けていたとき、その事件の背後に隠されるようにして、ある女性による殺人事件が起こっていた。奇しくも浅間山荘事件と同じ軽井沢という場所で、猟銃による被害者の射殺という、時が時であれば間違いなく新聞の一面を飾ったはずの事件に、不思議な時代の符合を見出したあるノンフィクション作家が、その事件の当事者である矢野布美子と会い、彼女が起こした事件の全容を聞く、という形式で話がはじまる本書は、冒頭こそ、矢野布美子が裁判でも秘密にしていた事件の真相とは何か? というミステリーじたてで読者を惹きつけようとしているが、それ以上に印象的なのは、布美子が関わることになった片瀬信太郎と雛子夫妻、そして彼女が殺害した大久保勝也という登場人物たちが担うことになる役割と、旧約聖書に出てくる、人間が追放されてしまった楽園でのエピソードとの、意識的な結合であろう。

 当時まだ学生であり、左翼系セクトの活動家と付き合い、日々の食事にさえ事欠くような極貧の生活をおくっていた布美子にとって、片瀬夫妻が属していた世界は、まさに俗世間から隔離された「楽園」と言うべきものだった。元子爵の令嬢である雛子の身分がもたらす経済的ゆとりによって、衣食住といった、生活していくために誰もが少なからず頭を悩まさなければならない現実問題とは無縁のまま、自分がやりたいと思うことを悠々自適にやりつづけることができる片瀬夫妻の生活、そして夫婦であるにもかかわらず、お互いが複数の愛人を持ち、しかも互いが互いにそのことを認めているどころか、その愛人とどんなふうにして肉体的享楽をむさぼったかについて報告しあい、無邪気に笑い合い、抱き合うふたりの姿は、世間一般で言うところの夫婦の形からは大きく逸脱した、およそ尋常ではない関係である。だが、彼らの属している世界が現実ではなく、楽園だということを考えたとき、ふたりがその楽園の住人にふさわしい自由奔放さで、セックスがもたらす快楽を純粋に楽しんでいる、ということがわかってくるだろう。

 彼らは男と女の原型だった。私の目から見ると、雛子はイブで、信太郎はアダムだった。たとえイブが百人の男と寝ようと、アダムが百人の女と寝ようと、二人は世界でたった一つの番いであり、誰もその番いの関係を壊すことはできない……そんなふうに思われた。

 よく、人間と他の動物との違いとして、「恋」という感情をとりあげる人がいるが、ある意味で、その考えは正しい。なぜなら「恋」とは、人間が人間であるがゆえに心に抱く独占欲のようなものであるからだ。相手に自分だけを見つめていてほしい、自分だけが特別な人間なのだと相手に認めてほしい、という感情――それは同時に、孤独という言葉の意味を知ってしまった生き物が、否応なく陥ってしまう落とし穴でもある。「恋」という、決まった形も保証もない、目に見えない、曖昧な心の作用は、触れることのできないものであるがゆえに人の心に容易に猜疑心を植えつけてしまう。

 たんなる愛情表現なら、人間に限らず、あらゆる動物がさまざまな方法で行なっていることだ。それはちょうど、私たちが自分を少しでも美しく見せようと着飾ったり、プレゼントを用意したり、あるいは言葉という鳴き声で相手を魅了したりするのと、驚くほどよく似ていたりする。だが、動物たちの愛情表現にあるのは、純粋に種の保存のための生殖という目的であり、より良い子孫を残すという、生物としての本能的な作用でしかない。
 たしかに、そこには私たち人間が高尚なものとして崇め奉っている「恋」は存在しない。だが、それは同時に「恋」から生まれる嫉妬や憎しみ、腹の探り合いといった負の感情から自由であることを意味するのだ。

 人間と他の動物との違いを「恋」ではなく、発情期の有無で見たとき、年じゅう発情状態であると言っても過言ではない私たち人間は、むしろ生殖とはまったく関係のない、快楽のためだけのセックスを楽しむことができる生き物だと言うことができないだろうか。そういう意味で、片瀬夫妻は純粋なアダムとイブであり、彼らの住む世界は、けっして人間的な醜い感情の存在しない「楽園」であった。そして「恥」という心を持たないふたりのセックスは、けっして猥雑になりえないのである。

 旧約聖書では、蛇の言葉にそそのかされたイブが「知恵の実」を食べてしまったために、神の怒りに触れ、楽園を追放されてしまう。大久保勝也という名の蛇に、「恋」という名の知恵をふきこまれた雛子の、劇的なまでの心情の変化、その変化によって音を立てて瓦解してしまう神々の楽園、そして、片瀬夫妻の世界に「楽園」を見出していた布美子は、神の罰を与えるべく猟銃へと手を伸ばす――物語の後半は、まるで布美子本人でさえ理解のできない力がすべてを支配していたかのような展開で、しかるべき悲劇へと突き進んでいくことになるのだが、それが旧約聖書のアダムとイブの逸話であるとするなら、人間はまた同じ過ちを犯してしまったことになる。

 なぜ人は恋をしてしまうのか、なぜ同じ過ちを犯しながらも、誰かに惹かれてしまう自分の心をとどめおくことができないのか――もし、キリスト教で言うところの「原罪」が「恋」と同義であるなら、人間というのは何と悲しい生き物だろうと思わずにはいられない。(2001.04.15)

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