【集英社】
『失われた町』

三崎亜記著 



 もし、すべての人間がお互いのことを心から分かり合えるなら、きっと世界は今よりずっと平和なものとなっているだろう。だが現実には、平和を心から望んでいる人がいるにもかかわらず、その思いはなかなか届いていかない。世の中には争いが絶えず、人は人を裏切り、憎しみは増し、その憎しみの心が新たな争いを生み、その争いがまた多くの人を傷つけ、不幸にしていく。そして、一度こうした負の連鎖がつづいてしまうと、もはやそのきっかけが何だったのか、という事柄は置いてきぼりにされ、限りなく膨らんでいく負の感情が、まるで独自の意志をもつかのように人々を突き動かし、際限なく悲劇や不幸を生み出す構図を固めてしまう。

 一度起きた負の連鎖を断ち切るのは、けっして容易なことではない。猛スピードで走る自動車を安全に止めるのに、それなりの時間とエネルギーとタイミングが必要なのと同じように、負の連鎖という巨大な車輪を止めるには、もっと莫大な時間と根気が必要となってくることだろう。そして、そこには当然のことながら、さまざまな人間ドラマが生じることになる。私が本書『失われた町』を読み終えてまずイメージしたのは、たとえば負の連鎖のような、人間の意思や力ではどうすることもできない巨大で、しかし形のないものを相手に、それでもなお戦いを挑むことを決意した小さき人々、という構図である。そして、そこで展開される戦いというのは、けっして血沸き肉踊るというたぐいの戦いではない。

 三十年に一度の周期で起こる、町の消滅――それは、あるひとつの町に住む何万という人々が、忽然と消失してしまうという現象のことである。何の振動も衝撃も、音も光もなく、ただ人だけが無慈悲に消えてしまうという理不尽極まりない現象は、本書の世界では何百年も前から絶えず起こってきたことであるにもかかわらず、その原因については何もわかっておらず、そうである以上、町の消滅を食い止める手段は存在しないに等しい。人々にできることといえば、次の消滅を少しでも遅らせるために、消滅した町にかんするありとあらゆる痕跡を葬り去ることだけだった。町の消滅には「町」と呼ばれる見えない意志によるものとされており、消滅した町の情報をもちつづけることは、その「町」の意識を活性化し、人々を汚染すると言われているからだ。ただ、消滅管理局と呼ばれる機関によって、失われた町にかんする情報が極端なまでに統制されてしまうという体制ができあがっているために、人々が町の消滅に触れる機会はほとんどなく、それも手伝って人々のなかには、失われた町にかかわることは強い「穢れ」の意識をともなうものとして、それと関係することを忌み嫌う風潮ができあがっていた。

 だが、何万という人々が瞬時に消えてしまえば、かならずその消えた人たちと強い関係にあった人々が少なからず生まれてしまうことになる。本書に登場する人たちは、いずれも町の消滅によって大切な人とのつながりを絶たれてしまった経験をもつ者たちである。それは、あるいは恋人だったり、配偶者だったり、息子や娘だったりするのだが、彼らは消滅管理局による徹底した情報抹消のために、消滅した人にまつわるあらゆるものを捨てなければならず、それは、あたかもそんな人などはじめから存在しなかったことにしろ、と強制されるに等しいという意味で、死別よりなおつらいことでもある。死んだのではなく「失われた」のであり、そのことを悲しんではいけない、という世界の不文律――しかし、残された人はそれでもなお、生きていかなければならない。

 はたして、彼らは町の消滅という忌避すべき現象にかかわってしまった者として、どのように自身の気持ちと折り合いをつけ――あるいは折り合いをつけることのできないままにその事実と向き合い、何を思い、そしてその思いは彼らをどこへ導いていくことになるのか。本書は「月ヶ瀬」という名の町の消滅から、次の町の消滅までの三十年の年月を追った物語であるが、それは同時に、それまで消滅した町の痕跡を抹消するという役目しか果たせずにいた消滅管理局の、なんとかして次の消滅を予期し、将来失われる運命にある町の人々を救う方法を模索する戦いの歴史であり、同時に何もかもが抹消されてしまう「失われた町」の人々の、唯一残された人々の「想い」を必死に受け継いでいく道のりを描いたものでもあるのだ。

 町の消滅という意想外な現象が発生する世界、ということで、本書のなかにはその世界特有の疾患が多く登場するし、世界の構造や国のあり方、その歴史や宗教についても、私たちの生活する世界とは異なった趣きを漂わせる本書は、一種のファンタジーだと言うことができる。たしかに、町の消滅という現象が現実として存在する世界を描くためには、ファンタジーとしての要素を必要とすることなのかもしれない。その点は、同著者の『となり町戦争』も同様であるが、『となり町戦争』が、戦争という理不尽な出来事に対して人々が基本的に無力であるのに対して、本書の場合、町の消滅という理不尽な出来事に対して、消えてしまった人々が残した「想い」だけを支えとして、その「想い」を次へとつなげていく、という方法で対抗しようと試みている。それゆえに、本書にはけっして激しいものではないが、しかしけっして揺らぐことのない人々の強い意思を感じとることができるのだ。

 町の消滅という穢れを受け、その身をすり減らすようにして静かな戦いをつづけていく消滅管理局の人たちや、その穢れと関係しながらも、それでもなおその穢れとともに生きていくことを決意した人たち――彼らひとりひとりの力は、「町」という意識の前には無力かもしれないが、その力を少しずつつなげていくことで、次の消滅を阻止するという大きな目的へと近づいていく、という展開は、町の消滅が理不尽なものであればあるほど感動的なものでもある。そして、このつながっていく想いこそが、本書の最大のテーマであることは、本書の冒頭と最後にあるプロローグとエピローグが、時間軸においては逆転しているという点からも見てとることができる。町の消滅によって、人々は成すすべもなく消えてしまう。だが、失われた人々の「想い」は、そこで終わってしまうのではなく、むしろそこから始まっていくのだという本書のテーマは、それゆえに、理不尽極まりない現象を書きながらも、どこか大きな救いを読者に感じさせるのである。

「例えば町の消滅で失われた命だってそうさ。その命の重さを通じて、誰かが何かを受け継いでいこうとするのなら、それは必要な命であり、必要な失われ方なんだよ。次の時代へと望みを繋いでいくためのね」

 人はいずれ必ず死を迎える。それがどのような形で訪れるのかは、誰にもわからない。そういう意味では、私たちもまた「失われる」という運命にとらわれていると言うことができる。だが、それはけっしてそこですべてが終わってしまうことを意味しているわけではない。逆に言えば、その「想い」が何らかの形でつながっていくのであれば、たとえ負の連鎖を止めるという途方もないことでさえも、いつかは実現させることができるかもしれないのだ。それはひとりの人間としてこの世に生を受け、生きていくという小さなことに対する最大の誇りとなっていくに違いない。(2007.01.30)

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