【新潮社】
『ア・ルース・ボーイ』

佐伯一麦著 
 第四回三島由紀夫賞受賞作

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 まだ学生だったころ、ほんの何ヶ月かの間だったが、築地の市場で深夜のアルバイトをしていたことがある。深夜の1時に店に集合、店の主人の操る奇妙な車(名前忘れた)に乗って卸売り場に行き、商品の仕入れと積み込み、さらに仕入れた商品を、店に並べるものと、配達するものに仕分け、各お得意様のところにそれぞれ荷物を配達するのが主な仕事だったのだが、真夜中に起きて仕事をする、というのもさることながら、荷物の配達がけっこう大変で、慣れないうちは自転車の荷台に荷物を積みすぎて転倒してしまったり、バランスが崩れて動くに動けなくなったりしたことも、一度や二度ではなかったのを覚えている。

 世間では首相自らがIT革命を叫び、仕事はもちろんのこと、世の中の生活そのものが大きく変わろうとしているという。インターネットの普及は、距離と時間の感覚をますます希薄なものにし、家に居ながらにして仕事をこなしたり、顧客とまったく顔を合わせることなく契約を成立させたりする仕事のやり方があたり前になってくるだろうと言われているが、たとえどれだけ情報技術が発達しても、築地の市場での仕事のようなものは、けっして変わらないのではないか、という気がする。けっきょくのところ、私たちは生身の体を持つリアルな存在であり、食欲や睡眠欲、性欲といった生理現象から逃れられるわけではないのだから。ちょうど、インターネットを通じて知り合った人たちが、ネット上だけでの付き合いに満足できず、オフ会と称して顔を合わせるのと同じようなものだ。

 本書『ア・ルース・ボーイ』を読むと、リアルな存在としての自分、まぎれもない現実としての日常の感触、手触りのようなものを意識せずにはいられなくなる。なぜなら、本書は圧倒的な現実から逃げたり、無視したりするのではなく、きちんと真正面から見据えて生き抜こうとする人たちの物語であるからだ。

 斉木鮮、もうすぐ十八になろうとする少年、県下有数の進学校である高校を中退し、生後一ヶ月になろうとする赤ん坊を持つ、同じく女子高を退学した幹と、古いアパートで同棲している。お互いの両親から逃げるように家を出て、アパートに隠れ住んでいるため、親の援助はまったくあてにならないばかりか、退院を待たずに逃げ出したため、書類上は生まれてさえいない赤ん坊を抱え(さらに言うなら、赤ん坊は鮮の子ですらない)、さらにハローワークに行っても書類さえまともに書くことができない、という、非常に複雑かつ厳しい現実を背負って、それでもなお、彼らは自分たちだけの力で生きていこうとする。普通の高校生としての生活を捨て、彼が言うところの「ままごとみたいな暮らし」を選んだのは、もちろん幹のことが好きだったからに違いないのだが、同時にそこには、これまで望まない子として育てられ、たしかな自分の居場所を持てないままここまで来てしまった鮮の、自分を変えたい、自分だけの家庭を持ちたいという強烈な欲求があった……。

 かつて鮮が通っていた高校の英語教師が、彼に押した烙印「ア・ルース・フィッシュ(だらしのないやつ)」――しかし鮮はlooseという単語には否定的な意味ばかりでなく、「自由な」や「解き放たれた」といった肯定的な意味も含まれていることを知る。ネガティブな意味とポジティブな意味との岐路、ハローワークのカウンターの、内側と外側との合間、大学にも行かず、かといって暴走族にもなれない自分、そして幹との恋人とも配偶者とも言えない曖昧な関係――はっきりとした位置になかなか立つことのできない、どこから見ても不安定な立場の鮮の揺れ動く心、そしてそんな自分をなんとか変えて、この厳しい現実のなかで自分の場所を得たいと望む心を、本書は飾ることなく素直に表現している。他の誰から教えられたものでもない、自分の体で覚えた自分だけの世界――それがたとえどんなにちっぽけなものであっても、そんな自分だけが知り得た世界を大切にしたいという鮮の気持ちは、彼が中学校のときからやっている新聞配達における、彼にだけできるちょっとした気配りにもよく表われていると言えるだろう。

 そして、何より幹の存在がある。十七歳でまさに自分の体を痛めて私生児を生むことになった幹の姿に「圧倒的な現実に楯突くように」生きようとする力を感じたからこそ、鮮は、高校をやめ、幹を連れていっしょに暮らすことを決意する。それは鮮にとって、どこまでも曖昧な立場でいた自分自身から一歩前進するための、大きなきっかけでもあったに違いないのだ。

「圧倒的な現実」とは本当によく言ったもので、この世で生きていれば楽しいことばかりではなく、つらいことや苦しいこととも立ち向かわなければならないことを意味する。そんな「圧倒的な現実」に対して、例えば村上龍の『共生虫』のように、世界そのものを拒否して「引きこもり」をしてしまったり、伊藤たかみの『リセット・ボタン』のように、簡単に自分の命を絶ってしまったりと、後ろ向きな態度をとってしまう人々が現実の世界においても多いなか、現実に真っ向から立ち向かい、苦しみ、悩みながらも、けっして逃げたりごまかしたりせずに生きていこうとする鮮の姿は、とても潔く、それゆえに美しい。それは、現代に生きる私たちが失いつつある、真摯な態度につながるものでもあろう。鮮は本書の中で、主に公共施設の電気工事をする沢田鉄男と偶然に知り合い、彼の元ではたらくことになるのだが、彼がかつて通っていた高校の体育館の照明設備を点検しながら、こんなことを思う。

 体育館のスイッチは、前と後ろに分かれているので、後の方から作業をしているいまは、前の方は明かりが消えている。明るいこっち側から、薄暗い方に目をやると、かつての自分が、光の当たらないそっちの世界だけで呼吸していたような気にさせられる。そして、ぼくは、この仕事を通して、その世界に少しずつ光を当てはじめている。

 穴蔵のなかに閉じこもったままの人に、太陽の光が届くことはけっしてない。どんなに不安定な世の中であっても、たとえつらく苦しいことが待っていても、私たちはとにかく前へ進んでいくしかない。looseという単語には良い意味と悪い意味があると先程書いたが、どちらの意味にとるかを決めるのは、それを使う自分自身なのだ。

 かつて、英語教師に押された烙印――だが、鮮は誰かが勝手に決めてしまうような人生を考えもなく歩くことを拒否し、まぎれもない自分自身を見つけるために歩き始めた。何が大切で何がそうでないのか、決めるのは自分自身であるとあらためて気づいた彼が発する言葉「アイ・アム・ア・ルース・ボーイ」、それは鮮にとって、真の自由を勝ち得た者のみに与えられる勲章として輝くものとなるだろう。(2000.08.30)

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