【扶桑社】
『死のロングウォーク』

スティーヴン・キング著/沼尻素子訳 

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 だけど歩いてくれよ、ギャラティは脚に命令した。歩かなけりゃ死ぬんだから。
 かまうもんか、脚がいい返した。死んだってかまやしない。死んだって、死んだって。

 競技方法はいたって単純だ。ただ歩くだけ。誰よりも長いあいだ歩きつづけることのできた者が優勝。ただし、歩行速度が一定以下になると、その者は警告を受ける。警告は三度まで。それ以上の警告は、問答無用のリタイア扱いとなる。参加者は14歳から16歳までの少年100人。最後のひとりが決まるまでは、昼も夜も、雨が降ろうがヤリが降ろうが休みなく競技は続けられる。つまり、自分がリタイアするか、自分以外の99人がみんなリタイアするまでは、参加者はどんな例外もなく、ひたすら歩きつづけなければならないのだ。

 これが、本書『死のロングウォーク』の作品世界で、国民の圧倒的な支持を受けている競技のおおまかな内容である。物語は、この「ロングウォーク」と名づけられた競技に参加する100人の少年のひとり、レイ・ギャラティが、母の運転する車でスタート地点にやって来るところからはじまる。自分の息子が競技に出ることを嘆き悲しむ母親、どこか静かに興奮しているらしい少年たち、スタート地点で「切符」を渡されたというある参加者の噂話、この競技の監督者である少佐の威厳とカリスマ性――競技に対する予備知識やその背景に関して、とくにこれといった説明もないまま、しかしどこか尋常でない雰囲気を感じとりながら、とにかく「ロングウォーク」はスタートする。やがて、最初の脱落者が出る。そのとき……読者ははじめて、「切符をもらう」という隠喩が文字どおり、あの世行きの片道切符を渡されることであるという事実を知り、愕然とするのである。

 歩くか、死ぬか――100人の少年たちが、たったひとつしかない生き残りの椅子をかけて争う、という設定でまず思い浮かべるのは、高見広春の『バトル・ロワイアル』であるが、本書のなかでウォーカーができるのは、歩くという行為だけである。そういう意味では、本書の展開はごく単純な事象の繰り返し、ということになるのだが、しかしこの単純な事象の繰り返しが、常に死ととなりあわせのものであるとなると、事情はかなり変わってくる。むしろ単純であるがゆえに、その競技の異常性、しいてはそんな競技がまかりとおってしまう世界自体の異常性が、より際立ってくるとさえ言えるだろう。そうしたある種の緊張状態の描き方が巧みなのが、本書の大きな特長である。

 ウォーカーの耳に轟く銃声は、間違いなく誰かの死を意味するのだ。次に銃声が響いたとき、それは自分の命が終わるときかもしれない、という恐怖に駆られ、ウォーカーは悲鳴をあげる肉体にさらに鞭打って歩きつづける。その緊張状態は、たったひとりしか生き残れないという厳然たる事実とは無関係に、ウォーカーたちに奇妙な連帯感を生ませることになる。あるときは励ましあい、あるときは冗談をかわし、あるときは自身が警告を受けることさえ覚悟して他のウォーカーを助ける。もちろん、そうはしない少年もいる。敵意をむきだしにする少年さえいる。だが、そうした個人のさまざまな感情さえ、徐々にすり切れていく。そうなったとき、はたして少年たちは何を考え、どのような行動を起こすのか――そういう意味では、本書で重要なのは誰が優勝するか、ということではなく、むしろ死の極限状態に置かれた者たちが、どのようにして歩き、そしてどのように死んでいくか、ということだとも言える。

 それは、残酷なことだろうか。読者にはあきらかに無意味と思われる競技であり、無意味な死を死んでいくウォーカーたちの死に様を描くのは、やはり無意味なことなのだろうか。

「歩くか死ぬか、それがロングウォークの倫理基準なんだ。単純この上ない。肉体的に最適格者が生き残るんじゃない。――(中略)――頭なんだよ、ギャラティ」マクヴリーズはしゃがれた声でささやいた。「人とか神とかの問題じゃない。脳の中の……何かだ」

 ところで、この少年たちは『バトル・ロワイアル』のように、無理やりこの過酷な競技に参加させられたわけではない。彼らはあきらかに、自ら志願してウォーカーとなっている。普通に考えれば、たとえ莫大な金額の賞金がかかっていたとしても、生存率1/100という異常きわまりない競技に、まだ前途有望な若者が参加しようなどと思うはずがないのだ。だが、本書の世界では、毎年何千人という少年がこの競技への参加を希望するのだという。彼らはなぜ、「ロングウォーク」に参加しようと思ったのか、そもそも「ロングウォーク」とは何なのか――この疑問は、しかし最後まで読んでも解決されることはない。ギャラティ自身、よくわかっていないと本書のなかで明言しているくらいである。ただ、この競技に対する人々の熱狂や、ウォーカーに選ばれた者たちが一種の英雄扱いされている(人々はウォーカーがひりだした糞でさえ、争って奪おうとするのだ)という事実を考えると、少年たちが、自ら進んで「ロングウォーク」に参加するよう、社会自体が画策しているという見方もできる。それはある意味、「正義」という名のもとに殺し合いの現場である戦場に向かうため、自ら志願して軍隊に入る若者たちの姿と驚くほどよく似ている。

 私たちは自分の自由意志で生きていると信じている。だが、もしかしたらそう思わされているだけで、本当は誰かの思惑によって意識を操作されているだけなのかもしれない。自分は正常だと思っていても、本当はとてつもなく異常な状態にあるのかもしれない――そうした考えと、本書でおこなわれる「死のレース」の意味が結びついたとき、読者は著者があらゆる意味でホラー作家なのだということを知ることになるだろう。(2003.11.10)

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