【集英社】
『ロンドン』

エドワード・ラザファード著/鈴木主税・桃井緑美子訳 



 以前、このサイトの随筆のほうにも似たようなことを書いたことがあるが、何かの作文にしろ、小説や詩といったものにしろ、あるいはインターネット上の掲示板への書き込みにしろ、書かれた内容にふさわしいタイトルをつけるというのは、けっして容易なことではない。とくに小説の場合、まず最初に読者の目につく情報のひとつである、というだけでなく、著者がその作品に込めたテーマやメッセージなど、さまざまなものを内包した結果としてつけられるものであるだけに、下手をするとタイトルと内容とのあいだに格差が生じてしまうことにもなりかねない。名は体をあらわすというが、立派な名前をつけたとしても、その名のとおり立派な人間に成長するわけではないのと同様に、立派なタイトルをつければ、それにともなう内容が生まれてくるわけではない、ということである。

 今回紹介する本書『ロンドン』というタイトルを見たとき、ずいぶんと思い切ったタイトルをつけたものだ、という思いがまず最初にあった。ロンドンというのは言うまでもなく、イギリスの首都として実在する都市の名前であり、そこには当然のことながら古くからの歴史があり、その土地特有の風土があり、そこに暮らす大勢の人々の絶え間ない生活があり、その生活を支える建物や施設があり、そしてそこから伝統や慣習、いざこざや争い、出会いと別れといった数々のドラマが生まれてくる。「ロンドン」という、何の修飾語もないいたってシンプルなタイトルは、そのシンプルさゆえにそうした都市の複雑で雑多な性格をすべてひっくるめたものを指しているのだ。

 結論から先に言えば、本書はまさしく『ロンドン』というタイトルを冠するにふさわしい内容を秘めている。逆に言えば、それ以外のタイトルはまったく思いつかないし、またふさわしいとも思えない、という意味で、まさに「ロンドン」という都市そのものを書いた作品だということである。

 実在する都市そのものを物語の中心として展開していく作品は、ベヴァリー・スワーリングの『ニューヨーク』があるが、ニューヨークという都市が、ヨーロッパの植民地政策によって生まれた、比較的新しい都市であるのに対して、ロンドンの歴史は紀元前にまでさかのぼる。それこそドルイドたちの儀式の場であり、ケルト人の聖地として「ロンディノス」と呼ばれていた時代から、都市再開発が進められる20世紀末まで、あるときはロンドン大火や十字軍、ロンドン大空襲といった事件に、あるときはロンドン塔やグローブ座、セント・ポール大聖堂といった建造物に焦点を絞りつつ、全部で21の章にわけて時代を下っていく形をとっている本書は、まさに2000年にもおよぶロンドンの歴史を凝縮した内容であり、その壮大さは読者を圧倒するに充分なものを含んでいる。

 それぞれの章において、たとえばプロテスタントとカトリックという宗教上の対立、イングランド王即位の問題、あるいは国王派と議会派との対立、民主主義運動、男女同権といった、歴史的ターニングポイントとなる問題がテーマとなっており、本書を通して読んでいくことで、ロンドンという都市がたどってきた歴史をまさに追体験することができるという側面があり、また、それぞれの章で異なった登場人物たちが独自の物語を展開していくという点では、同じ都市を舞台とした無数の物語をつなげた連作集としての側面もある本書であるが、何より本書を魅力的にしている最大の特長は、すべての章をつらぬいて綿々とつづいていく登場人物たちの家系、そのつながりの深さにこそある。

 あくまでロンドンという都市こそが真の主人公として書かれている小説であるがゆえに、本書にはある特定の主人公となりえる登場人物は存在しない。いずれの登場人物の出番も、それぞれの章のなかのみで完結する場合が多く、長くても二つか三つの章以上をまたがって登場するようなことはない。むろん、それがひとりの人間の寿命の限界であり、ロンドンという都市の、今もなお続いていく壮大な時間の流れのなかにおいて、登場人物たちの生涯はあくまで現われては消えていく無数の泡のように儚いものでしかない。だが、本書を読み進めていった読者は、それでもなお時代をまたがって受け継がれていくものがあることに気がつくだろう。それは、たとえば大きな鼻や、赤い髭といった身体的特徴だったり、陽気で楽観的といった性格や、手先の器用さや記憶力といった才能だったりするのだが、そのような、あきらかに先祖から受け継がれたものと思われる特徴が、それぞれの章の登場人物のなかにたしかに息づいているのだ。

 たとえば、一房の白い髪と指のあいだの水かきという、非常にユニークな身体的特徴を受け継いでいくダケット家は、そもそも大ブリテン島に住むケルト族の漁師の家系であり、古くから自由民として生きていた一族であるが、あるときは歴史の大きな転換期に翻弄されて農奴や奴隷に身を落としてしまったり、逆に捨て子の身分から大恋愛を経て、大商人へと成り上がり、さらには伯爵という貴族の位を授けられたりする。もちろん、その流れは一本だけでなく、のちに新大陸に渡っていく一族もあれば、貧しい職人や売春婦としてイーストエンドで細々と生計を立てている一族もあり、また結婚によって他の一族の流れの中に混じっていくものもある。そしてそのひとつひとつの流れのなかに、人と人との出会いと別れがあり、さまざまな人間ドラマが展開していく。それは、あるときは胸のすくような逆転劇だったり、運命に翻弄される悲劇だったり、男女の恋愛にまつわるものであったりするのだが、こうした一族の生の営みを歴史の流れとともに追うことで、ひとつはっきりとわかってくることがある。それは、そうした一族の浮き沈みが、そのままロンドンの発展であり、またロンドンと切っても切れない関係で結ばれているテムズ河の、潮の満ち引きによってその流れが逆転するという性質そのものとつながっている、ということである。

 そう、まるでテムズ河のように流れが変わったり、あるいは別の支流へとつながっていったりするように、ロンドンという都市で生きる者たちの家系もまた、世代を超えて幸福をつかんだり、あるいは破滅へと転落していったりする。都市の物語は、そのままそこに住む人たちの物語でもあるのだ。そしてそこに積み重ねられていく人々の歴史は、アングロサクソン人であろうと、デーン人であろうと、ゲルマン人であろうと、ケルト人であろうと、あるいはユダヤ人やアラブ人や黒人であっても変わりはしない。物語のなかで、彼らは一応に何かに対して戦う人たちである。それは、あるときはイングランドを統治する王をめぐる戦いであり、信仰する宗教をめぐっての戦いであり、あるいは自由を求めるための戦いであり、身分の差や家柄を乗り越えるための戦いであり、貧困との戦いでもある。だが、包括的に見ていくならば、それらはひとえに人間として生きていくための戦いとして集約されるものである。

 そして、ロンドンという都市は、そうした人々の生き様を、ただ静かに受け止め、取り込んでいく。そこには否定も肯定もなく、善悪の判断もない。太古の昔からあったようにテムズ河は今もロンドンを流れていくし、人々の営みもまた変わることはない。時代とともにたしかに変遷していく人々、そして移り変わっていくロンドンの町並み――本書は、そうして変化していく部分はもちろんのこと、もっと深いところでけっして変わることなく続いていくものがたしかにあることを教えてくれる。

「では、ロンドン子をどう定義なさるの?」妻が興味深げにたずねた。
「誰でもここに住んでいる者だよ。
――(中略)――つまり、セント・メアリ・ル・ボウ教会の鐘の音が聞こえるところに生まれた者はみなロンドン子だ。そして、それ以外の者はみな」とペニーはにやりと笑ってつけくわえた。「外国人なんだ。アングロサクソンであろうとなかろうとね」

 家族が住まなくなった家は、何もしていなくてもそのうち荒廃し、人が住めなくなっていく。逆に、誰かがそこに住んでさえいれば、家はその人の生とともに家としての機能を維持し続けていく。これは、おそらく都市についても同じことだ。繰り返しになるが、魅力的な都市物語とは、そこに住む人々を魅力的に描き出す物語のことに他ならない。そして私たちは、本書をつうじてロンドンという都市が、ニューヨークにさきがけてまさに「人種の坩堝」と呼ばれるにふさわしい歴史を刻んできたという事実をまのあたりにすることになるのだ。(2006.05.04)

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