【富士見書房】
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』

桜庭一樹著 



「ほんとはね、ほんとの友達を探しにきたの。大事な友達。ぼくのためにすげーがんばってくれるいい感じの友達。そいつがみつからないと、海の藻屑になっちゃうの」

 今回紹介する本書『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読み終えて、まず私の脳裏に浮かんできたのは、イソップ童話のなかにある「ヒツジ飼いの少年とオオカミ」というごく短い寓話だ。村はずれに住むあるヒツジ飼いの少年が、「オオカミが来たぞ」という嘘を何度もついたあげく、本当にオオカミが襲ってきたときには彼の警告を村人は誰ひとり信じなくなっており、結果として少年のヒツジも少年自身もオオカミに食べられてしまう、というのがその内容であり、もしかしたら本当の原作の内容とは細かい部分で異なっているところもあるかもしれないが、この寓話が「嘘つきは破滅する」という教訓を語るものである、という一点については、話を知る人たちに共通する認識だろうと思っている。

 ところで、これまでさほど意識することもなかったこの寓話が、なぜ本書を読むことで急に想起されることになったのかと言えば、それはこのヒツジ飼いの少年が、なぜ嘘をつかなければならなかったのか、という理由の部分が妙に引っかかるようになったためだ。むろん、たんなる教訓的な寓話である以上、その少年に「嘘をつく」という役割以上のものを求めるのは筋違いのことなのかもしれないが、それでもなお、本書における海野藻屑が同じように嘘ばかりつく少女であり、しかしその嘘のなかにしか自分の生きる意義を見出せずにいたという重い事実をまのあたりにしたとき、ヒツジ飼いの少年のほうにも、同じように嘘をつかなければならないそれ相応の理由があったのではないか、と思わずにはいられなくなったのである。はたして彼は、何に対して戦っていたのか、と。

 山陰地方の、とある小さな港町でおきたバラバラ殺人事件――本書は基本的に、その被害者である海野藻屑がのべつまくなし撃ちまくっていた「空想的弾丸」の物語であると言える。転校初日から「ぼくはですね、人魚なんです」とエキセントリックな言動をくり返し、しょっちゅうペットボトルの水をがぶ飲みし、そんな彼女にまったく興味を示そうとしなかったクラスメイトの山田なぎさに妙に絡んでくる、まるで人形のように整った顔立ちの女の子の存在は、あくまで現実にコミットする「実弾」にしか興味のない山田なぎさにとって、さほど重要な意味をもつものではなかった。にもかかわらず、海野藻屑の存在が、彼女のつく嘘の数々が山田なぎさの意識にのぼってきてしまうのは、その嘘のなかに見え隠れする、自分たちをとり巻く現実に対する絶望にも似た諦念を見てとってしまうからに他ならない。

 父親のいない母子家庭で、秀才だった兄がひきこもりとなって、遅くまで働いている母に代わっておもに家庭のこと全般を手がけなければならない山田なぎさの境遇は、けっして幸福なものではない。それは彼女にとっての、けっして無効にすることのできないひとつの厳然たる事実である。そして、その現実を変えていくために必要なのは、何より現実に直接影響を与える力――即物的な表現でいえば現金であり、大人としての身分であり、自立するということであることを、彼女は充分認識している。そんな山田なぎさの現実に対する認識とは対極の位置にいるのが、海野藻屑という人物だ。彼女のつく嘘は、その気になればすぐに嘘であることがバレてしまう、ある意味陳腐なものでしかない。何より、彼女の父親がかつて有名だったシンガーソングライターの海野雅愛だという事実は、誰もが知っていることだ。だが、彼女は自分のつく嘘の世界にしがみついてけっしてそれを手放そうとはしない。それどころか、その嘘を本当だと思わせるために、山田なぎさたちをまんまとあるトリックに陥れたりさえしてしまう。

 本書には海野藻屑が見せたトリックに対して、なぎさの兄である友彦が謎解きをしてみせるというシーンがあり、そういう意味ではミステリーとしての側面があるのはたしかだが、本書のなかで重要なのは、何かの謎を解き明かすことではなく、むしろ子どもたちの無力さを際立たせることにこそある。父親の虐待でつけられた傷を「水の汚染による皮膚の病」だと言い張る海野藻屑の、まるで砂糖菓子のような「空想的弾丸」は、当たったところでたいして痛くもない代物でしかない。だが、では山田なぎさが執着する「実弾」にしたところで、それを込めて撃つ銃がおもちゃのバネ仕掛けのものでしかない以上、やはり同じように現実にとっては何の威力もないものなのだ。そういう意味で、海野藻屑も、山田なぎさも、そして探偵役ともいうべき友彦も、同じように無力な子どもでしかない。そして本サイトの書評のなかでしばしば触れてきたように、探偵は基本的に事件を防ぐことはできない。しかし、その現実がこのうえないやるせなさと無力感を引き起こさせる作品はそうそうないし、本書はその数少ない貴重な作品であることだけはたしかである。

 誰かが何かの嘘をつくとき、そこには必ず何らかの理由が存在する。ミステリーにおける名探偵であれば、圧倒的な論理でもってその嘘をあばき、隠された謎へと迫っていけるのだろうが、山田なぎさがたどりついた現実は、わかったところで彼女ひとりの放つ「実弾」ごときではどうすることもできない重みをともなうものだった。そしてその重みは、今は大人として生き残ることのできた私たちにとっても、けっして無関係ではない。それはあるいは、私たちを押しつぶしていたかもしれない、そんな現実の重みなのだから。

 嘘をつきつづけるには多大なエネルギーと緊張を要するものであるし、それゆえにけっして生易しいものでもない。本書を読み終えて、私はあらためてイソップ童話のヒツジ飼いの少年のことを思わずにはいられない。彼が放った嘘は、彼がヒツジ飼いであり、だからこそ現実に影響を与える「実弾」たりえたわけであるが、何度も使えば当然その威力を失うであろう嘘を、なぜつきつづけなければならなかったのか。そこには自分以外には何の効果もない「砂糖菓子の弾丸」を撃ち続けなければならなかった海野藻屑がかかえていたものと、同じような何かがあったのではないだろうか。(2007.05.19)

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