【筑摩書房】
『生きて死ぬ私』

茂木健一郎著 



 私がこれまでそれなりに本を読んできてわかってきたのは、私がごくあたり前のこととして考えていたり感じたり、あるいは判断を下していたりする諸々のことが、確たる「自分」という存在があって、そこが考えたり感じたりしているのではなく、どうも外的要因や身体的機能による反射作用のようなものに依存しているらしい、ということである。そういう意味において、まぎれもない自分自身などというものは存在しないということになる。もし自分というものを知りたいのであれば、自分の内側ではなく、外側に目を向けるしかない。自分をとりまく世界との関係性を見据えたうえで、自分の輪郭を描くのではなく、自分でない部分を塗りつぶしていくことで、かろうじて見えてくるものが、他ならぬ自分を知るということにつながっていく。

 ところで、こうした考えを究極なまでに突きつめていくと、自分と世界との関係性――何かに対して考えたり感じたりする作用や、何かを見たり聞いたりする感覚のすべては、じつは脳の中で生じるニューロンの発火によって引き起こされる脳内現象にすぎない、という命題にたどりつくことになる。私が目という器官によって「見えている」と思っているものは、じつはそこにあるものを生で見ているわけではなく、脳というバイアスのかかった映像だということだ。ゆえに、自分の見ているものが、かならずしも他の人にも同じように見えているとは限らない。逆に言えば、ある特定のニューロンを発火させさえすれば、私たちは目の前にないものを「見て」しまうことになる。このあたりが脳科学の興味深いところでもあるのだが、たとえその事実を知識として知り、また理解できたとしても、私をとりまく世界の、この生々しいまでの質感がただの脳内現象だと割り切ってしまうのは、そう容易なことではない。

 ただのニューロンの発火にすぎない現象は、私たちに圧倒的な世界の質感をありありと伝えてくる。というよりも、私たちが世界を認識する唯一の方法が脳内現象でしかない以上、それ以外の世界など存在しないに等しいと言える。それはたとえるなら、私がある女性に対してこのうえない魅力を感じることに対して、「あの女はしょせんタンパク質の塊にすぎない」と言うのと同じようなものである。なぜタンパク質の塊である女性を「美しい」と感じてしまうのか。なぜニューロンの発火という作用が、こうした心の機微を生み出すのか――今回紹介する本書『生きて死ぬ私』には、そうしたラディカルな命題が含まれている。

 だが、本当に大切なことは、

 人間の心は、脳内現象にすぎない

 という命題がいかに驚くべきものか、そして、それが、私たちの生き方、ものの見方に、いかに深い影響を与えるものであるかを、「感じる」ことだ。

 本書の著者は脳科学の研究者であり、「クオリア」と呼ばれる、人間が世界に対して感じとる独特の質感をキーワードに、心と脳の関係を探究している方であるが、本書はそうした科学的な見地というよりも、そこを出発点として世界を捉えなおす試みというほうが、よりしっくりくるものがある。そういう意味で、本書は文学的だ。なぜなら、文学とは人が既存の世界観に対して、世界を自分の納得のいくものに再構成する作業であるからだ。「まぎれもない自分」や「神」などの超越的存在といった、これまで世界を支えていた常識からいったん距離を置き、あくまで人間の心が脳内現象であるとしたときに、世界はどんなふうに見えてくるのかを考えることは、おそらくこれまでとは異なった未知の領域へと踏み込むことを意味する。

 たとえば、文学をはじめとする芸術の出発点として、本書では「私の心」へのこだわりというものを挙げている。この「私の心」というものは、人が「幸福」になるためには、むしろ邪魔なもの、幸福になるのをさまたげるような要素として出てくるのだが、ここで言うところの「幸福」とは、人々の個性をまったく無視したうえで必要とされる、ごく一般的な要素のことだという点に注目しなければならない。それは、衣食住が充実していることであったり、家族と過ごす時間であったり、心の余裕だったりするのだが、それらのものは人間が幸福であるための絶対的な条件として、かならずしも成立するわけでないことは、少なからぬ人たちが同意することだと思う。

 仮に、少しでも多くの金を手に入れることが「幸福」の条件であると定義したとする。そこで次のような実験を行なってみる。1万円をAとBのふたりで山分けにする。その配分を決めることができるのはAであるが、Bには拒否権が与えられている。BがAの提案に同意すればその配分どおりの金額が手に入る。だが拒否すればふたりとも取り分はゼロとなる。このゲームは、池谷裕二の『脳には妙なクセがある』という本のなかで紹介されていたもののひとつであるが、もし純粋に金を手に入れることが「幸福」であるなら、その配分はどうであれBはAの提案に同意するはずである。だがじっさいにはそうはならない。たとえ自分の取り分がゼロになったとしても、相手にも損をさせてやろうという心理が発生することがある。とくに、Aの提案した配分が、あまりに理不尽なものだと感じれば感じるほど、それを感じる「私の心」は提案を拒否する方向に傾いていく。

 幸福になりたいというのは、誰もが思い描く願いである。だが、きわめて客観的な立場から幸福であろうとしても、「私」というものへのこだわりがそれを邪魔してしまう。だからこそこの心の作用――個人が個人であるためのこだわりというものは、文学のテーマたりえている。逆に言えば、それがなければ文学はもちろん、芸術全般はそもそも生まれてくることさえなかったに違いない。そんなふうに考えるとき、私たちはよりラディカルなテーマと向き合わざるを得なくなるのだ。幸福になることがかならずしも人間の望むこととはかぎらないとすれば、そもそも人間は何のために生きているのか、と。

 私が他ならぬ私であると認識するための連続性、記憶の問題、宗教や癒しがなぜ人々には必要なのかといった問題から、臨死体験や体外離脱体験といったオカルトじみたもの――意識の変性状態(オルタード・ステイツ)――にいたるまで、本書で取り扱っているものは幅広い。そこにははっきりとした答えがあるわけではないのだが、その根底には常に、脳内現象に過ぎないそれらのものが、なぜ私たちの心に発生するのか、という驚異が内包されている。むろん、それが人間の進化において必要であったから、言い換えれば、厳しい環境をより効率よく生き残るための力として進化したもの、というふうに答えることもできるのだが、それでも、たとえば何かを美しく感じたりするといった、生物学的に生きていくのに不要と思われるような心理の発生要因を説明するには、いささか脆弱なものを感じずにはいられない。

 人の心がニューロンの発火作用だということが科学的に証明されたとしても、それだけではどうしても割り切れない「私の心」というものがある。その不思議さ、その驚きに気づくことが、本書のもっとも大きなテーマだと言える。そしてそれは、私たちがどう生きるべきなのか、という普遍の命題にも直結している。はたしてあなたは、本書を読むことでどんな世界をその心で捉えなおすことになるのだろうか。(2013.09.26)

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