【講談社】
『リトル・バイ・リトル』

島本理生著 



 以前紹介したメアリー・W・ウォーカーの『神の名のもとに』のなかで、犯罪ライターであるモリーが、大きな不幸に巻き込まれて何もかもなくしてしまった人々が、それでもなお生きていくのは、すべてをなくしたわけではないからだ、と語るシーンがある。このとき、おそらく彼女が想定していた「まだ残っているもの」とは、人間の命と体のことだろうと思うのだが、仮に命と体が残っていたとしても、生きようとする意志がないかぎり、その人間は真の意味で生きているとは言いがたいのではないか、とふと考えたことを覚えている。

 たとえば、私たちの体はその存在を維持していくために、いろいろなことを要求してくる。それは食欲だったり、排泄だったり、あるいは睡眠への欲求だったりといろいろあるが、私たちはそうした欲求にしたがって食事をとり、トイレに行き、そして休息をとることになる。私たちがふだんから営んでいる日常生活とは、じつはそうした体からの欲求を満たしていくことの繰り返しによって成り立っている部分が大きいものであるが、しかしそれだけでは、他の動物の日常となんら変わりがない、ということになってしまう。

 言うまでもなく、私たちはこの現実世界で日常生活を営んでいる。そして、私たちひとりひとりが異なった意志をもっているのと同じように、それぞれがかかえる日常生活の形もまた、個々によって少しずつ何かが異なっているはずである。本書『リトル・バイ・リトル』という、けっして長くはない物語を読み終えたとき、人々が幸福であっても、あるいは不幸のどん底にあっても、当人の意志とは関係なくつづいていく日常というものの形――誰もが何気なくつづけていくものの、じつは人間の生と直結する行為である、という意味では何よりも重要なもの――について、あらためて考えさせられることになった。

 本書の語り手である橘ふみは、高校を卒業したものの、とある金銭的理由で大学受験を一年先延ばしにせざるを得なくなった境遇に置かれている。妹のユウは小学二年で、まだまだ手のかかるお年頃、母親は整骨院でマッサージ師としてはたらいているが、物語の冒頭では、いきなりその職場がつぶれてしまい、新しい職を探さなければならなくなっている。そして、父親はいない。ふみが受験勉強をしていた頃に、二番目の父親――ふみとは直接血のつながっていない父と母が離婚したせいだ。そしてその影響は、ふみ自身の進路にもおよんでいる。

 こうして語り手の環境を客観的に書いていくと、彼女の家庭環境はそうとうに複雑で、置かれた立場がけっして生易しいものでないことがわかってくるのだが、あくまでふみの一人称で進められていく物語のなかで、そうした深刻な状況は、どこにでもありそうな日常生活の描写のなかに埋没してしまっており、けっして目立つことがない。しかし、本書の冒頭で、ふみが母親のことを、地の文上ではあるが「彼女」と言ったりするところなど、けっして一筋縄ではいかない複雑な事情を抱えていることが、本書を読み進めていくことで少しずつわかってくるような構造をとっている。

 一人称である、ということは、あくまで誰かひとりの主観から物語を語る、ということでもある。これは、べつに三人称の物語であってもよく見られる手法ではあるが、本書の大きな特長が、まさにこの一人称という形式を使って、ふみというキャラクターの境遇を語らせるのではなく、読者に悟らせるよう誘導している、その文章センスにあることは間違いない。なぜなら、ふみ自身が自分の境遇をけっして不幸だと感じているわけではなく、あくまでそれがあたりまえの日常として、受け入れている――あるいは受け入れようとしているかのように、日々自分の周囲で何があったのかを語っているからである。

 人の幸不幸などというものは、絶対的なものではなく、あくまで相対的なものにすぎない。たとえば、よく私より上の人たちが、しきりにバブル景気の頃のことを語っていて、今の私たちの立場を不幸だと言ったりすることがあるが、社会人となった私にとってのただひとつの現実は、バブルがはじけて「超氷河期」などと言われたころに就職活動をしていた頃から今までの社会のことだけであり、私自身が体験したこともない時期を比べることに何の意味も見出せない。それが不幸だろうと、そうでなかろうと、私はけっきょくのところ、今目の前にある現実を生きていくしかないのだ。そしてそれは、ふみ自身についても言えることである。

 ひどい目にあえばあうほど、いつかに期待してしまうのはなぜだろう。自分はまだ想像の中で生きている父に希望を捨てないでいる。離れて遠ざかるほど実像とは違う姿が頭の中で勝手に形成されていくのだ。

 もちろん、ふみの血のつながった父親は彼女の前からいなくなっただけで、べつに死んでしまったわけではない。だが、父親である男が父親であることを放棄し、娘の前に二度と姿を現わさないと決意したのであれば、それはふみ自身にとっては、本書のなかでひとつの事件として起こる、身近だった人の死となんら変わりがないということになる。

 高校を卒業した時点で、ふみはもう高校生ではなくなっている。といって、大学に進学していないので大学生でもなく、アルバイトをしてはいるがフリーターというわけでもない。家族の中でも、けっこうだらしない母親に代わって妹の世話をしたりしてはいるが、血のつながりの点でも本当の意味での姉というわけでもない。そういう意味で、彼女の置かれている立場は、じつは非常にあいまいなものである。そのあいまいさ、自分が何者であるのか、という立ち位置がはっきりしないことによる不安定さは、ふみがキックボクサーである市倉周とつきあいはじめても基本的に変わらない。「体から、生活や家庭や日常のさまざまな良い要素が煮詰まって発されている」とふみに感じさせる周は、恋人というよりも、彼女のあこがれるものをすべて持っている人、という位置づけに近い。

 大きな不幸がふりかかり、何もかもなくしてしまったあとも、人々は生きつづける。それは、何もかもなくしてしまったということではなく、なくしてもまた、少しずつもとあった日常を――あるいはもとあったものとは違うかもしれないが、それでも生きていくための日常を取り戻していく、ということなのだろう。ふみ自身も、急に何もかも変わっていくことはできないが、それでも周という健全さ――けっして先を急ごうとしないやさしさをもつ男のそばにいることで、少しずつではあるが、変わっていくことになるだろう。それはまさに、本書のタイトルである『リトル・バイ・リトル』にふさわしい展開だと言えよう。(2005.09.24)

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