R.L.P(read,look,play)
『リトル・レディ』

おがわゆきと作 



 ゲームのなかにストーリー性が求められるようになったのは、いつ頃からだろうか。

「筋書きのないドラマ」という表現は、たとえば野球などといったスポーツの世界で用いられたりするものであるが、野球を一種のゲームとして考えるなら、もともと集団で行われるゲームには、固定したストーリーなど入り込む余地がないのが普通である。どんな試合運びでゲームが展開し、どちらのチームが勝利するのか――その結果は、文字通り試合が終了を告げるまでは誰にもわからないし、どんな強豪チームであっても、もしかしたら思わぬ敗北を喫することさえあるかもしれない。その予測のつかなさこそが、ゲームの面白さだと言ってもいいだろう。
 だが、その一方で私たちは、ゲームの中に一種のドラマを求めているのも事実である。先程の野球の例でいえば、たとえばあまりにも得点差がついてしまい、どうあがいても逆転の可能性がなくなってしまった試合などは、試合結果が容易に予測できてしまうがゆえに、観ていてもたいして面白くないものだ。私たちはそれぞれがひいきにするチームを応援し、そのチームが勝つことを期待しつつ、いっぽうで緊迫した投手戦や、一打逆転の燃える展開、あるいは土壇場での劇的なサヨナラゲームといったドラマ性も、同時に求めている。どうせ試合を観るのであれば、つまらない試合よりも面白い試合を観たい、というのが人間の心理だ。

 今ではすっかりコンピュータ・ゲームの1ジャンルとして定着した感のある「ロール・プレイング・ゲーム」も、ごく初期の作品には大したストーリーなど無きに等しいものだった。自分の分身であるキャラクターを育て、モンスターと戦ってレベルアップさせたり、装備を充実させたりすること自体が目的だった部分のあるRPGだったが、エニックスの「ドラゴンクエスト」シリーズがファミコンで登場したあたりから、RPGにもある程度明確なストーリー性が盛り込まれるようになった。今では純粋にゲームを楽しむというよりも、その作品がもつストーリー性や、映画を思わせるようなビジュアル性が重視されてきているのは、今時のゲーマーであればうなずけるところだろう。

 そもそもストーリー性など入り込む余地のなかった「ゲーム」という要素に、人々が期待するドラマを持ち込んだとき、私たちはいつしかそのゲーム性を楽しむのではなく、まるで小説を読むかのようにそのドラマに期待し、感動させてくれることを望むという方向性を持つようになったのではないか――今回紹介する『リトル・レディ』という作品は、一応「ゲーム」という位置づけがされてはいるが、その方向性は間違いなくストーリー重視のものだと言うことができる。だが、この作品が目指したストーリー性重視という方向は、ただたんに小説にすべきストーリーをゲームに変換した、というレベルだけでは語りきれないものがある。

 本作品はブラウザ上でプレイすることができるゲームで、形式としては、かつてチュンソフトという会社がスーパーファミコンで出したゲームソフト「弟切草」や「かまいたちの夜」に代表される「サウンドノベルズ」ということになる。音と映像によって彩られたブラウザ画面の上を流れていく物語を追いつつ、ところどころでプレイヤーにいくつかの選択肢を迫り、その選択いかんによって物語の結末が変化していく――父と娘の成長を描いた「娘シナリオ」、その娘に姉ができるという、シリアスタッチの「舞シナリオ」、そして娘の友人の物語である「ユミ・シナリオ」の3つをおさめた本作品のうち、上述の「サウンドノベルズ」の形式にもっとも近いのが、「娘シナリオ」である。

 記憶も名前も失って、捨て子同然だった幼い少女が、さる由緒ある家の男の娘として拾われる、という「娘シナリオ」は、男の姓と娘の名前をプレイヤー自身がつける形をとっており、また記憶を失った少女という設定によって、登場人物の個性をあまり意識させないようにしている点など、ある意味ではどんな性格にもなりえる「育成ゲーム」に近いものとなっている。じっさい、3つあるシナリオのうち、マルチエンディング形式をとっているのは「娘シナリオ」だけである。だが、何度かこのシナリオをプレイした方なら、娘の父親となる男のとる選択肢が、じつはそのストーリーそのものに大きな影響をおよぼしているわけでないことに気がつくだろう。そしてこうした傾向は、残りのシナリオにおいてさらに濃厚なものとなる。
「舞シナリオ」では大森舞が、「ユミ・シナリオ」ではユミ・カスチャーが中心人物となり、「娘シナリオ」では中心だった登場人物は、これらのシナリオではあくまで登場人物のひとりとして扱われることになる。それぞれしっかりとした人物設定があり、それにのっとって行動を起こす舞やユミの物語であるがゆえに、「娘シナリオ」の登場人物として選ぶことができる選択肢も、ここではたんに個としての性格づけ以上の意味をもつことはないのだ。

 選択肢がありながら、その結果がストーリーにほとんど影響しない――それは本作品をゲームととらえたならば致命的な欠点であるが、そうした欠点をあげつらうのは、この作品の方向づけそのものを見誤った見解だと言わなければならない。本作品は、ゲームとしての要素よりも、むしろそのストーリーを楽しむためのものなのである。そういう意味では、本作品はゲームではなく、小説や映画と同じ、ひとつの物語作品なのだとさえ言えるだろう。

 ゲーム性を極端に抑え、あえてストーリー性を最大限に重視することで、本来は物語を分岐させる役割を負っていた「選択肢」という機能は、本作品においてはまったく別の役割を与えられることになった。それは、たとえば「娘シナリオ」の選択肢によって与えられるある情報が、他のふたつのシナリオのちょっとした伏線として機能する、といった役割である。ゲームの要素としての選択肢は、ここではストーリー性に幅をもたせるためのひとつの道具なのだ。そしてそれは、本作品を構成している3つのシナリオの、微妙な距離のとり方においても言えることである。

 基本的に、本作品の3つのシナリオは、それぞれ独立した物語であり、共通したストーリーという意味ではけっしてつながることはない。だが、その登場人物たちは、3つのシナリオを通じて登場する。たとえば「舞シナリオ」にユミが登場し、「ユミ・シナリオ」に舞が登場し、それぞれがまったく違った役割を演じたりする、ということがここでは起こるのだ。ストーリーはけっしてつながらないにもかかわらず、それ以外のさまざまな部分でつながりをもつ3つのストーリー ――そういう意味では、3つあるシナリオがそれぞれひとつの作品なのではなく、3つ合わせてはじめてひとつの作品であり、そのことによって物語世界の幅がより広がっていくという構造になっている。

 そして、さらに個人的な感想を述べるなら、こうした独自の「技」がなかったとしても、少なくとも「舞シナリオ」のストーリーは秀逸である。「娘シナリオ」の少女の中途半端な魔法によって、このファンタジー世界に転送させらてしまった大森舞――いつも正直で自身を飾らず、どんな状況においても冷静な態度を崩さないが、しかし心の奥には燃えるような強い意思を秘めている彼女は、自分を「姉」と呼んで慕う少女を大切に思いながらも、自分がもといた世界へ戻る手段を模索する。しかし、ようやく見つけたその方法は、舞と少女にとってはあまりにも残酷なものだった……。はたして舞はもとの世界に戻ることができるのか? そしてその残酷な方法とは?

 けっして強く自己主張することのないイラストやBGM、クリックするたびに少しずつ進んでいく文章の「間」のとり方、そしてそれぞれのシナリオの各章から自由にはじめることができる設定など、そこには常にストーリーを中心にして形作られたひとつの物語作品がある。そしてそれは、これまであった小説とも、また既存のサウンドノベルズとも異なる、まさにこの形式でなければ表現しえない独自の物語を生み出すことに成功した、まさに稀有な作品でもあるのだ。(2004.05.08)

リトル・レディ


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