【新潮社】
『睡蓮の教室』

ルル・ワン著/鴻巣友希子訳 



 自分が子どもだった頃を振り返ったときに、友達と呼べる同級生が私にも何人かいたのだが、彼らといつ、どんなきっかけがあって付き合うようになったのか、という点については意外と記憶があいまいだったりする。子どもの頃の友人関係といえば、たいていは近所関係や学校関係といったものが中心となってくるのだが、ひとつだけたしかなことがあるとすれば、友達になるならないの判断材料として、彼らの両親の就いている職業のことなどまるで眼中になかったという点である。学校という場においては、どんな生徒もたいした差があるとは思えなかったし、また誰と友好関係を結んでおけば後々有利になるか、といった打算も関係なかった。そこにあったのは、純粋に自分が好きになれるかどうかという、きわめて単純な価値判断しかなかったし、むしろそれがすべてだと私は思っていた。

 むろん、他の人たちがどうだったのかはわからない。あるいは、その頃の私は他の人たちよりもずっと恵まれた立場にいた、ということなのかもしれないのだが、もし両親の職業がどうとか、学校内、クラス内での自分の立場がどうとかいった判断材料が、友達選びの基準となっていたとしたら、今の私はどんな人間になっていたのだろうか、とふと考える。自分にとっての好き嫌いという感情は、あるいは自身の友人関係を狭めるものであったのかもしれないが、ときにそんな感情とは無関係に、さまざまな人たちと付き合いをしていかなければならない社会のなかで生活している今となっては、そうした単純な価値判断がいかに貴重なものであったのかが見えてくる。

 誰と友達になるか、あるいはなれるのか、ということについて、こうするのが正しいという絶対の指針というものなどない。だが、本書『睡蓮の教室』のなかに書かれているふたりの少女の友情とその結末を考えるとき、私の内に渦巻くこの胸のつぶれるような痛みは何なのだろうと思わずにはいられない。本書の語り手である水蓮と、彼女の友達だった張金――このふたりが保とうとしてきた友情は、はたしてふたりにとって幸福だったのか、それとも不幸だったのか、と。

 金もわたしも、自分たちがなにに立ち向かおうとしているのか、はっきりとわかっていた。わたしたちは金の運命に、そして社会のシステムに、挑む宣言をしたのだ。金があらゆる屈辱をうけ、生まれながらに最下層に属すると決めつける社会に。

 本書の舞台となっているのは、1970年代前半の中国。折しも文化大革命の名のもとに粛清の嵐が吹き荒れ、中国全土が文字どおり麻のごとく乱れたなか、十二歳の少女水蓮は、全身にできた皮膚病を理由に、母親のもとで暮らすことを許された。心臓外科医である父も、大学教師の母も、反共産党的思想犯という烙印のもと、「再教育施設」という名の強制収容所に送られており、水蓮は両親と引き離されて暮らしていた。

 文化大革命時代の実態については、たとえばユン・チアンの『ワイルド・スワン』『マオ−誰も知らなかった毛沢東−』などに詳しいので、この場であらためて説明はしないが、本書の水蓮のような境遇がけっして特別なものでないことは、本書の冒頭を少し読んだだけでもわかってくる。誰もが極端な不自由、極端な飢えに耐えなければならなかった時代のなか、水蓮にとって母とともに暮らすというのは、強制収容所で暮らすことを意味していたのだが、そうした劣悪な環境にあって、彼女が何を学んでいくことになるのか、という点が本書前半の読みどころとなっていく。

 芸術や一般教養はおろか、親子の情でさえ否定されかねず、密告や吊るしあげといった行為が隣人へのかぎりない疑心暗鬼と不信感をあおりたてていった暗い時代を描きながらも、十二歳の少女の視点から描かれる本書の世界はけっして暗くはない。現実の重苦しさに打ちひしがれながらも、それでもなお自然の姿を美しいと感じ、人と心を通わせることができることに喜び、そして「再教育施設」にいる知識人たちの「特別授業」を貪欲に吸収して自分なりの考えを生み出し、想像力をたくましくしていく水蓮の姿は、まさに十二歳の少女にふさわしい瑞々しさに溢れており、ときには独自のユーモアさえ垣間見せる。本書邦題のタイトルとなっている『睡蓮の教室』は、学校ではけっして教えてくれないさまざまな知識を披露するための場であり、学校の友人から引き離された水蓮の心の慰めの場でもあるのだが、何より「再教育施設」という抑圧されたなかに生まれた、自由にものが言える唯一の場であり、また象徴でもあるということを考えると、その皮肉なとりあわせにうならざるを得ない。

 わしの授業を本当に理解したいなら、ひとつ条件がある。プロパガンダには耳を貸さず、教条主義的に考えるのをやめ、自分で考えるようにすること。毛主席の言うことが、いちいち墓石に刻まれるような真実ともかぎらん。

 本書を読んでいくとわかってくるのだが、私たち読者は水蓮の視点をとおして、彼女の生きた時代をまさに追体験していくことになる。そして中国共産主義一辺倒とは違った、多様な世界があるとを知ることになった(そこには同性愛の存在さえあるがままに受け入れようとする姿勢がある)彼女とともに、当時の中国の現状、政治のありかた、何もかもがいかに異常なものであるかをあらためて思い知る。こうした、語り手の視点からかつての中国社会をとらえなおすという手法は、本書中盤以降に中心となる張金との関係においても踏襲されている。張金の父親が出稼ぎ農民であるという、ただそれだけの理由で最下層の者だと決めつけられ、学校で毎日のようにいじめの対象となるという理不尽さを、私たちは水蓮の視点をとおして同じように憤り、なんとか一矢むくいてやりたいという彼女の気持ちと呼応している自分の心に気がつくことになる。そのあたりの、読者を引き込む物語の力は圧倒的なものがあると言わなければならないし、それが間違いなく本書の魅力のひとつでもある。

 この張金という少女もまた、水蓮以上に魅力的で、またこのうえなく強烈な個性を発揮する登場人物なのだが、本来であれば鉄のような意志の強さと他を抜きん出る才知をもっていながら、階層という差別意識ゆえに不当な目にあっている彼女を支え、はげましながら、いかに彼女を学校の最優等である「三好生」にのしあげようとしていくかが、本書後半の読みどころである。そしてそれと同時に、それまで少女であった水蓮が性に目覚め、異性に恋しながらも、そんな自分の心身の変化にとまどいを隠しきれないという要素も巧みに盛り込まれており、その多感な年ごろであろう少女たちの感情もまた瑞々しい。

 そういう意味において、本書の舞台が文化大革命時の中国であるという要素は、じつはたいして大きなものではない。そこにあるのは、私たちとなんらかわりない、まぎれもない少女たちの姿であり、どこにでもあるはずの成長を描いていった物語なのだ。そして、だからこそ水蓮と張金という、固い友情で結びついていたはずのふたりがその後にたどることになる運命を悲痛に感じずにはいられなくなる。

 はたして、彼女たちは分不相応なことを望んだのだろうか。そしてふたりは、だからこそ不幸だったのだろうか。本書を読み終えた読者は、きっとその問いに「ノー」の言葉を突きつけるだろう。たしかに、何も知らず毛沢東の言葉にしたがっていれば、余計な苦しみや感情を背負うこともなかったのかもしれない。だが、それがまともな人間の生き方ではない、ということをふたりは知ってしまった。それはまさに、自分の意思で選択し、その責任を負うという、自由の本質を貫く生き方だ。そして、個人の自由が極端に抑圧された時代にあって、ふたりの生き様がこのうえなく輝いていたことを、少なくとも私たち読者は知っている。彼女らの背負った運命は、けっして不幸などではないのだ、と確信できるものが、本書のなかにはたしかにある。(2008.03.16)

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