【メディアワークス】
『図書館戦争』

有川浩著 



 何年か前に、おもにインターネット上で児童ポルノ規制法(正式名称は「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」)の成立、さらにはその改正案に関する是非が話題になったことがある。18歳以下の未成年の売春行為や、全裸、半裸写真の撮影といった行為に対する規制を目的としたこの法案は、不当な労働や理不尽な性的搾取の対象となっている児童を守るというもので、その理念には大いに同意すべきものがあるにもかかわらず、なぜその是非が問われることになったかといえば、その法案がともすると、児童を守るという大義名分のもと、表現の自由の束縛や大規模なメディア規制へとねじ曲がっていく要素を含むものであり、しいてはたんに「臭いものに蓋」をするかのような法案の拡大解釈が、本当に児童の人権保護につながるものであるのか、といった疑念が噴出することになったからでもある。

 平成19年2月の時点で、この法案の改正は上述の危険性を回避するようなものとなり、おおむね当初の理念に沿う形となったことで、事実上の決着をみた体裁となっているが、その当時の雰囲気を思い返してみると、当法案施行後の最悪のケースとして、ほとんど言葉狩りに近いメディア規制が法の名のもとに行なわれ、表現の自由が著しく損なわれる、民主国家とは程遠い管理社会が想定されていた。それは今考えれば、いかにも大袈裟なもののように思える内容であったのはたしかであるが、そのように具体的な想定が浮かんでくること自体、たんに想像力の飛躍として受け流すにはリアルなものがあったということでもあり、そうしたメディア表現への圧力はたしかに以前から懸念されてもいたし、今もなお大きな懸念材料となっている。最近の例を挙げるなら、少女コミック『NANA』での、未成年の喫煙シーンに対する禁煙学会の過剰な批判などがそれにあたるだろう。

 本書『図書館戦争』の世界において、各公共図書館は独自の軍事組織をもち、専守防衛にあたっている。実地経験においては自衛隊をも上回ると言われる「図書隊」の存在の背景には、「メディア良化法」と、その法を執行する良化特務機関がある。人権を侵害する表現を取り締まるという名目のもとに成立、施行された「メディア良化法」は、国が合法的に放送や出版などあらゆるメディアに対して、一方的な検閲・押収を行なうことができるというものであり、そこにはいくらでも拡大解釈がまかり通る余地が残されていた。法の番犬である警察の力もあてにならない以上、公共図書館がかかげる自由――あらゆる法的検閲を逃れて自由に資料を収集し、市民にそれらを閲覧させる権利を守るためには、地方自治との結びつきを強くし、独自の防衛力を保持するしかない。かくして、本書のなかでは良化委員会と図書隊との武力衝突――事実上の戦争行為がリアルで行われているという、なかばギャグのような世界観が確立することになった。

 言ってみれば、まさに上述したような法施行後の最悪のケースがそのまま現実化した、ある種のファンタジー小説なのだが、個人の表現の自由が脅かされているという負の状況にもかかわらず、その世界観が、たとえばレイ・ブラッドベリの『華氏451度』のような悲壮感がないのは、ひとえに彼らの戦闘行為が「図書の自由」というきわめて限定されたものであるからに他ならない。じっさい、本書のメインとなっているのは、その図書隊のなかでも戦闘職種である防衛員への配属をあえて希望する少女、笠原郁が事あるごとに巻き起こす騒動であり、また彼女の教官である堂上篤や同期たちとの、まるで漫才を思わせる軽妙な言葉のやりとりである。過去にある図書隊に助けてもらったという思い出を後生大事にかかえ、その見知らぬ図書隊員を「王子様」あつかいしてしまう、ちょっと恥ずかしいくらいの理想と、図書隊の厳しい現実に思い悩みながらも、それでもなおまっすぐに走っていこうとする郁を中心として展開していく物語は、むしろ口当たりのいいハートフルな青春小説といっていい雰囲気をもっているのだ。

 そう、本書における郁の立ち位置は、あくまでまっすぐに自分の理想を追いかけていく、体力バカで頭はよくないが、誰よりも図書隊の理念に一途な憧れを持ちつづけるというものであり、それは言ってみるなら心の正しさ、正論を象徴するものでもある。物語のなかで、彼女はじつによく怒り、よく泣く。そうしたむき出しの感情は、何より彼女のまっすぐな性格をよく表わしている。そして、そんな彼女が本書の中心である以上、本書におけるもっとも重要なテーマが、そうした正しさ、正論をめぐるものであることは間違いないところだ。じっさいに本書を読み進めていくと、読者はしばしば「正論」や「正しさ」に関する言及がなされていることに気がつくことになる。

「正論は正しい。だが正論を武器にする奴は正しくない。お前が使ってるのはどっちだ?」

「うん、それすごい正論ね。でも正論って面倒くさいのよ」

「君たちは――公序良俗を謳って人を殺すのか!」

 ともすると、図書館の武装化や出版物を巡る戦闘行為といったもの珍しい部分に目が向きがちな本書であるし、また図書館と良化委員会との対立は、比較的容易に勧善懲悪の構図を当てはめることができるものでもあるのだが、よくよく読み返してみると、図書館が守ろうとする自由も、「メディア良化法」が尊重しようとする人権も、形の上では「正論」だということに気づく。どちらも正論を打ち立て、そうである以上、どちらも今の世の中をよくしたいという当初の理念は同じであるはずなのに、なぜ彼らは敵対し、争わなければならないのか――そんなふうに考えたとき、本書における対立構造は、善悪というよりも、むしろまっすぐな「正論」と、どこかで歪んでしまった「正論」とのぶつかりあいをメインとしていると言うことができる。そして、そうした対立構造は、じつは物語のいたるところで使われている。

 笠原郁と堂上篤との対立、あるいは笠原郁と手塚光との対立、図書館が守るべき法の原則と、異常犯罪に対する被害者の怒りや不安との二律背反、有害な図書を規制したいという大人たちの理屈と、あくまで好奇心のままに本を読みたいという子どもたちの感情との対立――本書はそうしたこまかい部分での物語構造について、かなり意識して組み込んでいる部分があるし、そうしたテーマへの配慮は、物語自体の面白さとともにうまく機能していると言える。そして、ここが本書の巧みなところでもあるのだが、そうした構図の中に、図書館と良化委員会との対立は、じつは入ってはこない。良化委員会はもちろんのこと、武装した図書館の側にもひとえにまっすぐな「正論」をふりかざせないシーンが入っており、むしろ図書館側もまた、ある種歪んだ「正論」をかかえているという捉え方をしている。そして、だからこそ、まっすぐな「正論」の象徴である郁の存在が輝いてくることになる。

 むろん、たんなる読み物としても充分楽しめる内容であることは間違いないが、本書には想像以上に深くて大きなテーマがあり、またそのことを著者自身もかなり意識しているのではないか、と思わせる部分もある。図書の自由をめぐる果てしなき攻防のただなかにあって、それでもなお「本を守りたい」というまっすぐな理想を見つめつづける少女の奮闘ぶりを、ぜひとも見守ってもらいたい。(2007.02.25)

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