【文藝春秋】
『手紙』

東野圭吾著 



 新聞やニュースを見るかぎりにおいて、私たちの住む社会では毎日のように誰かが何らかの犯罪行為に手を染め、その結果として事件の加害者と被害者が生み出されているが、一度起こってしまった事件は、いったいいつの時点で終わりとなるのだろうか、とふと考えることがある。警察が犯罪の容疑者を逮捕したときか、その容疑者の罪が裁判によって確定したときか、あるいは犯罪者が刑期を終えて出所したときか。ミステリーにおいては、事件の謎が解き明かされ、その犯人が暴かれればそれで決着がついたということになるのだろうが、それはあくまで事件に対して第三者の立場でいられる者たちにかぎられた話であって、事件の当事者となった加害者と被害者にとっては、ことはそう簡単ではない。なぜなら犯罪というものは、何気ない日常を生きる私たちにとってけっして近づきたくない、関係したいとは思わない禁忌のようなものであり、加害者にしろ被害者にしろ、それまでの日常が大きく歪められることを強制されるイベントに他ならないからだ。

 とくにその犯罪が殺人ともなれば、なおのこと遠ざけたいと思うのが人間の心理である。言うまでもなく死んだ人間は、けっしてこの世に戻ってはこない。それは犯人が死刑になっても同じことであって、崖から突き落とされた被害者とその家族に対して、加害者を同じ崖から突き落とすようなものだという比喩を使った森達也の『死刑』は、きわめて適切な視点をもっていた。彼らは崖の下から救い出してほしいと願っているのだ。だが、そんな彼らに人々は手を差しのべることよりも、かかわりにならないことを選ぶことが圧倒的だ。そして崖から突き落とされるのは、加害者の家族についても同様であることを、本書『手紙』は雄弁に物語っている。

 ようやく悪夢から解放されたと思っていた。――(中略)――それはすべて錯覚だった。状況は何も変わっていない。世間と自分とを隔てている冷たい壁は、依然として目の前にある。そこを越えようとしても、壁は冷たさを増すだけだ。

 本書に登場する武島直貴の兄、剛志は、強盗殺人の罪で服役中の身の上である。資産家らしき老婆が住む家に押し入ったものの、留守だと思っていた老婆と遭遇し、手にしていたドライバーで思わず首を刺してしまったのだ。動機は直貴の大学進学の資金をつくるため。両親を亡くし、高校を中退して肉体労働で生計を立てていたが、無理がたたって体を壊したあげくの犯行だった。

 短絡的といえばあまりに短絡的なその強盗殺害については、きわめて単純なものであり、犯人は剛志に間違いなく、罪もすでに確定した状態にある。事件としてはすべてが解決済みの案件、ということになるのだろうが、直貴にとってはむしろすべての始まりを意味するものとなっていた。「強盗殺人犯の弟」というレッテル――言うまでもなく、殺人事件を引き起こしてしまったのは兄の剛志であって、直貴ではない。だが、一度貼られてしまったそのレッテルは、彼の意思やその人間性とは関係なく、彼の人生のいたるところで大きな影響力を――それも、けっして良い方向ではない影響力をおよぼし、以前の直貴であれば問題なく得られるはずだった幸福の数々を、きわめて理不尽な形で何度も奪われることになる。

 殺人事件の被害者ではなく加害者、それも、犯罪者当人ではなくその家族に焦点をあてた本書であるが、読み進めていって見えてくるのは、この作品の主題が意想外にラディカルなものであるということである。ここでいうラディカルさとは、たとえば「死とは何か」といった、簡単に結論を出すことのできない根源的な問題のことを指すものであるが、本書が私たち読者に突きつけてくるのは、殺人といった重大な犯罪行為に対する立ち位置をどこに定めるべきなのか、という命題である。

 繰り返しになるが、私たちは加害者としてはもちろんのこと、被害者としても犯罪という忌むべき対象とのかかわりをもちたくはないと考えている。だが、本書における直貴のように、自身の家族がいつなんどきそうした犯罪を引き起こしたり、あるいは巻き込まれたりするかもしれない。とくに本書の場合、兄の犯行の動機について、自分の進学の問題がおおいに絡んでいたという負い目が直貴にはある。それゆえに、服役中の兄のことを、自分とは無関係な他人として完全に突き放すこともできずにいるのだが、その中途半端な状態がますます彼を苦しめ、そして自身の置かれた過酷で不条理な現実にどのように向き合っていけばいいのか途方にくれることになる。

 本書のなかで、直貴が社会から理不尽な目に遭うたびに、私たち読者の心は大きく揺さぶられる。「強盗殺人犯の弟」という理由だけで、彼を遠ざけ、人並みの幸せすら奪い取ろうとする周囲の人たちに、私たち読者は憤りすら感じる。だがそのいっぽうで、私たちは常に「自分だったらどうか」という疑問と向き合わずにはいられなくなる。直貴の立場だったらという想定はもちろんだが、それ以上に直貴のような立場の人間を前にしたときに、自分がどのように振舞うべきなのか、という疑問は、そのまま「正しさ」や「道徳」といったものだけでは通用しない世のなかへの疑問へとつながっていく。そういう意味で、本書のテーマは重いし、ふだん私たちができるだけ考えないようにしていた矛盾、知りたくもない事実と向き合う必要があるという意味で、ラディカルな主題をもつ作品でもある。

 しかし一方で、彼らは応援はしても自分の手をさしのべようとはしてくれないのだと再認識した。直貴に幸せになってほしいと思ってはいる。だが自分は関わりたくないのだ。誰が別の人間が助けてやればいいのに――それか本音なのだ。

 本書のタイトルである『手紙』とは、獄中の兄が弟に宛てて送ってくる手紙のことを指している。月に一度、必ず直貴の元に届く手紙――物語が進むにつれ、その手紙に対する直貴の心情がどのように変化していくのか、という点が本書の読みどころのひとつとなっていくのだが、この「手紙」というタイトルには、もっと根源的なもの――犯罪行為に対する罪と罰についての、もっと深い掘り下げが隠されていることに、ラストになって気づかされるという仕掛けを象徴するものでもある。当事者たちをひたすら不幸にしていく犯罪という行為と、そこからいつまでも続いていく理不尽な仕打ちの連鎖――直貴がいつになったらその連鎖から抜け出せるのかという命題は、一度かかわってしまった犯罪を、当事者たちがどのような形で終わらせるかという命題と密接なつながりをもっている。はたしてあなたは、その重いテーマと向き合うだけの勇気をおもちだろうか。(2012.08.30)

ホームへ