【文藝春秋】
『悪の教典』

貴志祐介著 

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 倫理学上の有名な思考実験のひとつに「トロッコ問題」というものがある。これは制御不能になったトロッコがあり、そのまま放置しておくとトロッコの先にいる五人が轢かれて死んでしまうという状況があると仮定したうえで、もしあなたがポイントを切り替えてトロッコを別の線路に引き込むことが可能な立場にあったときに、そうするかどうかという問いかけである。ただしここで重要なのは、ポイントを切り替えると、たしかに五人は助かるのだが、切り替えた先の線路にいる一人は確実に轢かれて死んでしまうという点である。

 アンケートの結果では、たいていの人が苦渋しながらもポイントを切り替えるほうを選択するそうである。五人が死ぬよりは一人が死ぬほうがいいだろう、という功利的判断が働くから、というのが理由らしいのだが、ここで問題を少し改変し、ポイントの切り替えではなく、橋の上から人を一人、トロッコの走る線路に突き落とすかどうか、という選択肢に変更すると、大半がこれを拒否するようになるという。

 どちらの設問も、その根本にあるものは変わらない。五人を助けるか、一人を助けるか、という二者択一なのだが、これは裏返せば、一人を殺すのか五人を殺すのか、という二者択一でもある。もちろん、この問題には明確な解答はなく、むしろ道徳的なジレンマを扱うための設問でもあるのだが、私が個人的に思ったのは、たとえ大勢の人を助けるためであっても、その方法として誰かを直接的に殺すという選択は、やろうと思ってもなかなかやれないものだ、という点である。人という生き物は――少なくとも社会的な価値観をごく自然に身につけた人は、完全には功利主義者にはなり切れないところがどこかにある。もし、いついかなる状況のときにも、常に「五人を助ける」という選択肢をとる人がいるとしたら、その徹底した功利主義は英雄的というよりは、むしろ不気味である。

 黙ってさえいれば、誰にも気づかれないことである。なぜ、最も不都合な事実を、わざわざ世間に公表しなければならないというのか。そのことで、せっかくこれまでに築き上げた生活を、すべて無にしてしまうというのに。

 今回紹介する本書『悪の教典』には、ひとりの高校教師が登場する。蓮実聖司――巧みなプレゼン能力と話術で自身の英語の授業を盛り上げ、生徒たちだけでなく他の教師からの信頼も厚い彼は、けっして熱血教師という柄ではないにもかかわらず、学校内に生じるさまざまな問題に対して誠心誠意尽力し、なんとかうまく収めてしまうことに長けた教師でもある。生徒指導という、けっして生徒に好かれるわけではない立ち位置にいながらも、たんに生徒たちを押さえつけること、とにかく問題を起こさないようにする他の教師たちとは異なり、相手の考えにも配慮した態度を崩さない彼の人気は学校内で高く、生徒たちのなかには彼の親衛隊を結成する者たちもいるくらいである。

 教師という、他の誰かに何かを教える立場にある者にありがちな、自分を必要以上に上に置き、相手よりも優位でありつづけたいという態度は、ともすると権威主義におちいって相手からの反感を買いがちなのが常なのだが、こと蓮実聖司にかんするかぎり、そうした露骨な態度を示すことはほとんどない。それは彼が、学校内における自身の人気に全幅の信頼を置いている証左でもあるのだが、本書の序盤で生じる、学校内のさまざまな問題やトラブルに次々と対処し、これ以上はないという適切な解決へと導く、いっけんすると理想的な教師のように見える蓮実に対して、本書を読み進めていくうちに、読者は少しずつ違和感をおぼえることになる。そして、そうした微妙な違和感の演出が、本書前半部の特長だと言うことができる。

 たとえば、本書におけるもうひとりの主人公とも言うべき片桐怜花は、蓮実の担当するクラスの生徒の一人であるが、学校という場がある種の閉鎖空間であり、子どもたちを教育するという役割以上に、生存競争の場と化していることを直感的に見抜いている。そして彼女の直感は、蓮実が生存競争における狩る側、捕食者であることを告げている。だからこそ彼女は、他の生徒たちの意見とは裏腹に、本書の序盤から彼に対して怖れをいだき、警戒心を解くことはない。最終的に、彼女の直感はこのうえなく真実をついていたことが明らかになるのだが、本書の読み手側にいる私たちが蓮実という人物の違和感をおぼえるのは、むしろ物語のなかで絶妙なタイミングで差し挟まれる、彼の思考に触れるときである。

 たとえば、蓼沼将大という生徒がいる。彼は蓮見の受け持ちクラスの生徒のなかでも、札付きの問題児として登場するが、彼が校舎内で喧嘩をしているという知らせを聞き、急いで駆けつけたさい、蓼沼の手にカッターナイフが握られているのを見た蓮実の思考は、以下のとおりである。

 いずれにしろ、この期に及んで、こんなものを使わせてはならない。担任としての責任問題にもなるし、負傷者が出るなど問題が大きくなれば、メディアにも大きく報道される可能性がある。

 いっけんすると、いたってまともな思考ではあるのだが、ここにはカッターナイフによって傷つけられる者、あるいは傷つけてしまう者に対する配慮がまるまる抜け落ちてしまっていることに気づく。そこにあるのは、あくまで「生徒が誰かを怪我させたときの、学校側のデメリットの大きさ」というきわめて功利的な論理のみである。これまでの蓮実という人物の、表面上は生徒たちのことを深く考えているという姿勢からすると、どこか異質な思考である。

 ここで私はあえて「思考」とか「論理」という言葉を選んだ。そう、あくまで蓮実の主観で進んでいく本書において、彼の心理状態はまったく描写されていないのだ。あるのは彼の理路整然とした、しかしこのうえなく歪んだ論理のみであって、それは彼が何を考えているのかは理解できても、彼の内面にあるはずの心理や感情といったものには触れることができない。著者は基本的に、サイコな思考の登場人物の生理的な不気味さを際立たせることにかけては右に出る者のない作家であるが、本書においてはその特色にさらに磨きがかかっているし、後半における蓮実の、あくまで功利主義的な判断から到ることになる行動もぶっ飛んでいる。本書には女子生徒の弱みにつけこんで性的いたずらを強要する柴原徹朗や、体罰容認の姿勢を崩さない園田勲、典型的な「でもしか」先生であり、生徒から軽んじられているにもかかわらず、腹のなかに凶悪な感情を隠している釣井正信など、教師としても人間としてもいささか問題のある人物が登場するが、そんな彼らの存在が可愛く見えるほど、蓮実聖司の異常さは際立っている。

 もし、生まれながらの悪人というものか存在するならば、まさしく蓮実こそがその代表格となるに違いない、という確信がある。そして彼を「悪」と決めるのは、ある特定の誰かというわけではなく、私たち人間によって支えられている社会そのものだと言うことができる。人間社会にとって、このうえなく異質な存在として生まれた者――いついかなるときも、平然と「五人を助けるために一人を殺す」ことを選択できる蓮実という人物と対峙したとき、私たちは「人間とは何か」というラディカルな命題と向き合わざるを得なくなる。自分たちと同じ姿形をしていながら、じつは人間ではない何かが紛れ込んでいる社会――著者の作品のなかで浮かび上がってくるのは、そんな底知れぬ恐怖の世界である。(2013.06.03)

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