【講談社文庫】
『李歐』

高村薫著 



 以前、私はある本の書評のなかで、「力が欲しいのであれば銃を手に入れればいい」と述べたことがあるが、純粋に人殺しのための道具である銃は、どれだけその性能が向上しようと、どれだけその殺傷能力が高まろうと、あくまで人間によって使われる道具であって、それ以上でも、それ以下でもない、という大前提を忘れるわけにはいかないだろう。もし、あなたが本物の拳銃を目にする機会があったとして、そのときおそらく抱くであろう恐怖の感情は、その銃がもつ殺傷能力そのものではなく、その銃を所有し、それが持つ力を振るうことができる人間がたしかに存在する、という事実に対して引き起こされる恐怖である。

 どれだけ強大な力を持っていても、使われることさえなければ、銃はただの鉄の塊でしかない。言いかえるなら、純粋に人殺しのための道具であるがゆえに、その力を行使する人間の資質というものが何より問われることになるのが、拳銃なのだ。そういう意味では、拳銃はそれを扱う人間の人格をもっとも色濃く反映する道具だと言うことができるだろう。拳銃を手にすることによって否応なくついてまわる、不特定多数の人間に対する生殺与奪の権利――人間の命という、あまりにも重いものを、拳銃とともに背負う覚悟のある人間というのは、けっして多くはないだろうが、もしそのような人間の手に拳銃が渡ることがあれば、そのときこそ拳銃は、その本来の力を発揮するのではないだろうか。

 本書『李歐』についてまず語っておかなければならないのは、本書が同著者の『わが手に拳銃を』を文庫化するさいに全面的な見直しをおこなった結果、同じ設定、同じ登場人物を用いながら、旧作とはガラリと雰囲気の異なる――言ってみればまったく別の物語として再生された作品である、ということだ。
 高村薫という作家を語るうえで欠かすことのできない特徴のひとつとして、改稿や加筆に対するこだわりというのが挙げられる。版を重ねるたびに作品のあちこちに手を加えることを常としているがゆえに、同じタイトルを冠していながら、たとえば単行本と文庫本とではその作風が大きく変化している、という事態が、著者の作品ではあたり前のように起こっている。その改稿癖に関する賛否についてはとりあえず置いておくとして、ついにそのタイトルさえも変わってしまった本書『李歐』が、旧作と比べて大きく変化している点は、『わが手に拳銃を』では、あくまで登場人物のひとりとして客観的な視点を崩すことなく描かれていた「リ・オウ」が、「李歐」という漢字の名前を与えられ、その存在感を圧倒的に増している、という点に尽きる。

 そのとき一彰が真っ先に吸い込んだのは、自分とはまったく違う空気を呼吸し、まったく違うものを見ている生きものという違和感であり、どこから来るのか分からない透明な大陸の空気の幻であり、自分でも理解できない微かな興奮だった。

 世の中に対して屈折した感情を抱いている青年が、あきらかに常人とは異なる強烈な個性と魅力とをもつ男との出会いによって、その後の人生を大きく左右されていく、という意味で、本書は五條瑛の『断鎖−Escape−』と非常によく似た構造の物語だと言うことができる。だが、『断鎖−Escape−』のサーシャがあくまで無国籍的であるがゆえの「自由」の体現者であるのに対して、本書の李歐はあきらかに中国大陸という背景を背負っている。まるで女のように艶かしく踊り、人を魅了せずにはいられない容貌と、独特の気配を身にまとっている李歐――彼がもつ大陸の雰囲気は、しかし李歐の圧倒的な存在感を損なうものではなく、むしろ吉田一彰というもうひとりの主人公との対比によって、いっそうその存在を引き立たせる役目を果たしているのである。

 当時6歳だった自分を捨てて、近くの町工場で働いていた中国人労働者と駆け落ちしてしまった母親――大学卒業を間近にひかえながら、自身の人生に対する展望も、将来への希望も見出せないまま、ただ日々を無為に過ごしていた一彰は、言いようのない衝動に駆られるままに失踪した母親の手がかりを求めた結果、あるナイトクラブに母と駆け落ちした男らしき人物が出入りしている、という情報を得て、そのクラブのアルバイト店員として働いていた。そんな一彰の前に現われた李歐は、その駆け落ちの相手である男とその側近を、いきなり拳銃で撃ち殺し、平然とその場を立ち去ってしまうのだ。まるで、それまで一彰を縛りつづけていた「過去」という名の鎖を、断ち切るかのように。

 一彰の抱える過去は、けっして軽々しいものでもなければ、平凡なものでもない。だが、当時文化大革命で悲惨な状況にあった中国大陸で生まれ育った李歐のこれまでの人生は、そんな一彰の過去さえ足元にも及ばないほど壮絶なものであった。しかも、李歐はそんな自身の過去すら悠々と受け入れ、前へ進んでいこうとする不屈の精神をもっている。李歐の過去については、『わが手に拳銃を』においても語られていたものであるが、ギャングであり殺し屋でもある李歐は、けっして拳銃の力に振りまわされるのではなく、その力を自覚していながら、それでもなお自身のもつ価値観のためにその力を振るうことをためらわない人物、という意味で、旧作のリ・オウよりもさらにその人物像や心理が掘り下げられ、生きたひとりの人間として生まれ変わっていると言えよう。

「この世界で、他人の口から身を守る方法は二つある。一つは、殺す。もう一つは、相身互いの共存だ。ぼくはあんたに名前を教えることで、それなりの代償を払う。あんたも、ぼくの名前を知ることで応分の代償を払うことになる。そういうことさ」

 それまで客観性を保つために、今一歩踏み込むことができなかった登場人物たちの心理に焦点をあわせることで、登場人物たちの人間性をよりリアルに表現していく――どうも著者が頻繁に改稿や加筆をおこなうことで目指そうとしているのは、そうした点ではないかと思われるのだ。じっさい、本書においては、町工場に勤めていた外国人労働者にしろ、一彰の前に何度となく姿を現わす「田んぼのおまる」こと田丸刑事にしろ、旧作とくらべてずいぶんとその人物像が明らかになり、印象深いものとなっているのだが、とくに李歐に関して言えるのは、口に出すひとつひとつの言葉への重みであり、それは逆に言えば、一度口に出した事柄については、何があろうと撤回はしないし、そのためにはどんな犠牲も払うという覚悟でもある。たとえその結果として、拳銃で他人を撃ち殺すことになったとしても。

 守れない口約束は絶対にしない。だが、一度交わした約束は、何があっても守り抜く――李歐がただの殺し屋と一線を画しているのは、まさにこの一点においてである。そのためには、李歐はけっして状況に流されるような生き方をしてはいけない。自分の意志によって確信的に犯行を実行し、そして常に巨大な力をもつ組織に対して勝利をおさめなければならなかった。その結果としての改稿、という意味であれば、それはたしかに成功していると言えるだろう。

 旧作が多分にハードボイルド的な物語であったとするなら、本書は人と人との運命的な出会いと、揺れ動いていく心の作用を描いた人間ドラマだと言うことができるだろう。そしてそこで中心を成すのは、無機質な拳銃などではなく、それを扱う人間でなければならない。ギャングであるとか、スパイであるとかいった枠では絶対にとらえることのできない、まぎれもないひとりの人間である李歐の魅力を、存分に味わってもらいたい。(2003.07.30)

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