【ランダムハウス講談社】
『マイクロソフトでは出会えなかった天職』

ジョン・ウッド著/矢羽野薫訳 



 私は小さいときから本を読んでいたわけではなく、どちらかといえば友だちと外で遊びまわったり、あるいは当時流行していたテレビゲームで遊んだりといったことが好きな子どもだったが、それでも、バスに乗って隣町のデパートまで買い物に行ったさいに、図書館で本を読むというのは、私にとって特別なイベントのひとつだった。当時の私が好きだったのは、動物や宇宙のカラー写真が豊富な子ども向けの図鑑のたぐいで、絵本や児童書などにはあまり食指が動かなかったのだが、今にして思えは、そうしたカラー図鑑のたぐいの本を読むというのは、私にそれまで知らなかった世界の存在を教えてくれたという意味では貴重な体験であり、今の私を形づくるための重要なピースのひとつとなっているという確信がある。

 本格的に本を読むようになったのは、高校生くらいからだが、その頃には私の行動範囲も飛躍的に広がっており、かつての図書館にも自転車で通えるようになっていた。当時パソコンを中心に隆盛を誇っていたファンタジーRPGに影響されていた私は、読書傾向もSFやファンタジー関係の読み物が多かったが、こうして人生を振り返ってみると、今の私――日々の空いた時間の大半を読書とその書評に費やしている私という個性が形成されるにあたって、その節目節目で本というものが何らかのかかわりをもっており、その場として図書館があったことが見えてくる。

 もし、私のこれまでの人生において図書館という施設がなかったとしたら、今の私はおそらく存在しなかったに違いない。だが、世界には図書館はおろか、学校も教師も、教科書すら圧倒的に不足している地域がたくさんある。教育というものの重要性がわかっていながら、貧困ゆえに本がなく、また本が読みたくても読み書きの知識すら満足に受けられず、それゆえになかなか貧困から抜け出せないという悪循環に苦しむ人たちがいる。今回紹介する本書『マイクロソフトでは出会えなかった天職』は、マイクロソフトの要職にありながら、34歳のときに行ったネパール旅行をきっかけに人生の針路を変更、世界じゅうの貧しい地域に図書館を建てるというNPO組織「ルーム・トゥ・リード」を設立し、現在も世界の識字率向上のために精力的な活動をつづけている著者の自伝であるが、本書の面白いところは、著者が以前の職場であるマイクロソフトという会社に大きな不満があったり、変に否定的だったりするわけではなく、むしろ「ルーム・トゥ・リード」の活動において、マイクロソフト社員時代のノウハウや経験を積極的に取り入れ、「NPO界のマイクロソフト」を目指すとまで言っていることだ。

 僕は若くして経済的に成功したが、その大半は幸運だったからにすぎない。たまたま、ふさわしいタイミングでふさわしい会社に入っただけ。お金を持っている人ほどすばらしい人間だというわけではない。本当に大切なのは、そのお金で僕が何をするかだ。

 ネパールで本がほとんどない図書館をまのあたりにしたときに、なんとか本を持ってきてやりたいという強い思いにとらわれた著者であるが、そこには生まれた場所が違うという、ただそれだけの理由で、一方では自分のようにマイクロソフトに入社できるのに、もう一方ではまともな会社に就職するチャンスすら与えられない、という現実へのショックがあった。そして後に立ち上げることになる「ルーム・トゥ・リード」の第一歩は、過去の偉大な活動が常にそうだったように、本のないところに本を届けるというほんの小さなことだった。

 だが、著者の思いは次第に大きなものとなっていく。ネパールのほかの図書館にも本を届けなくていいのか、図書館のない場所にも図書館を建て、本を届けるべきではないのか――やがて、著者は「一〇〇〇万人の子供に生涯の教育機会を届けること」というとんでもなく大きな目標をかかげることになるのだが、こうした大きな目標を最初に表明してしまうというやり方ひとつをとってみても、たとえばまだ開発すら行なわれていないアプリケーションソフトやOSなどを、さも実在するかのように発表してしまうマイクロソフトのやり方を踏襲したものであることが見えてくる。そこには「大きく考えれば、目標はおのずと実現する」「大胆な目標は大胆な人びとを引きつける」といった一種の理念があり、それは慈善活動だけでなく、ビジネスモデルの理念としても通用するものである。

 本書のサブタイトルには「僕はこうして社会起業家になった」とある。じっさい、著者は慈善活動という場において、企業のビジネスモデルを取り入れていくことで、慈善活動の最大のネックとなる資金繰りという問題にあらたな活路を見出した人でもある。お金がなければ自分の考えている活動は実現しないし、また継続させていくこともできない。であれば、資本のある裕福な人たちが進んで寄付しようと思わせるような目標を立てるべきであるし、そのためにどこにでも言って「金が欲しい」と堂々と営業することを著者は厭わない。運営コストを低く抑えるために各地に資金集めのための拠点をつくり、また図書館や学校を建てる現地でもボランティア活動を募って協力してもらう。それらの小さな活動をネットワークでつないでいくことで、全体として大きな成果を生むという考えは、現実に慈善活動のそれまでのあり方を大きく変えつつある。

 だが、何といっても本書の魅力は、本書の著者が自身の今の仕事について、その人生をかけて行なうべき天職であるという力強さをもち、そのポジティヴな雰囲気が本書のなかにも満ちていることだ。もちろん、すべてが順調だったわけでもなければ、その過程においてさまざまな懸念材料がもちあがり、またアメリカ同時多発テロやスリランカ沖地震など、活動において負の要素となりかねない出来事も起きた。だが、彼らはとにかく行動をはじめることで、負の要素さえもより良い方向に動かしていくことに成功している。そしてそんな彼らの行動の記録をつづった本書は、たんに読み物としてや起業家としてのノウハウ本としてだけではなく、私たちひとりひとりが人間として満足に生きるための指針を示してくれている。

 前向きで積極的な力は、この宇宙でつねに暗闇と虚無の力を打ち破る。僕たちはただ、意志をもった人が行動を起こす場所を提供すればいいだけだ。

 著者は間違いなく、世界を変えていくための尽きない情熱をもちつづけていける稀有な人である。そして、人は誰もが著者のようにはなれないが、世界を変えたいという願いは誰しもが持っている。しかし、では何をすればいいのか、どんな行動を起こせばいいのかわからないし、それだけの時間的・金額的余裕もない人が大半だ。著者の編み出したビジネスモデルは、そんな大勢の人たちのちょっとした願いをひとつに束ね、大きな力とすることで、夢が夢でないことを証明して見せた。それは、私たちが考える以上に重要なことであり、またこれからの世界のありかたにおいて、大切なものとなっていくに違いないという確信がある。(2009.06.25)

ホームへ