【新潮社】
『最後の注文』

グレアム・スウィフト著/真野泰訳 



 昔、ネット上で知り合った、今はもう友人ではなくなった女性が私に言った。「人は変わることができるものだ」と。

 それは以前、私が彼女に言った言葉――「人はそう簡単に自分を変えられないものだ」という言葉を受けてのものだったが、その意見は私のなかで、今もあまり変わってはいない。まだ柔軟な思考をもつ小さな子どもであればともかく、いい歳をした大人がそうそう簡単に自分を変えられるものではないし、たとえ変わったと自分で思っていたとしても、根本のところでは何も変わってはいなかった、ということなどしょっちゅうである。だが、最近になってふと思うのは、彼女にとって、人が変わっていけるものかどうかという設問の正しい解答自体、あまり意味をなさないものだったのではないか、ということである。彼女にとって本当に大切だったのは、人が本当に変わるかどうかではなく、変わっていこうと努力する、その過程にこそあったのではないか。なぜなら、何も行動を起こさなければ確実に何も変わらないが、何らかのアクションを起こせば、何かが変わる可能性はゼロではなくなるからである。

 そして同時にこんなふうにも思う。「人は変わらない」という意見に固執する私は、じつは人が変わってしまうことを何より怖れているのではないか、と。無自覚にとった自身の行動が、相手との関係を悪い方向に変えていってしまうのを怖れるあまり、何の行動も起こさない自分の現状を言い訳にしているだけではないか、ということである。

 人間の生涯が何らかの選択の連続であるとして、いつも正しい選択ができるようであれば何の苦労もしなくていいわけであるが、何も選択しない、という選択肢もふくめ、選択した結果をおおいに後悔することが、はたして人生のうちでどのくらいあるのだろうか。本書『最後の注文』に登場する人々は、いずれも人生の晩年にさしかかった高齢者ばかりであるが、友人であるジャックの死、そしてそのジャックの「最後の注文」――「自分を焼いたらその灰を、マーゲイトの<桟橋>から海にほうってくれ」という願いをかなえるためにはじまった、マーゲイトまでの弔いのドライブの過程を描いた本書を読み終えて思うのは、ロンドンの下町、バーモンジーという華やかさの欠片もないうらびれた地域にとどまったまま、けっして目立つことも、また誰かから注目されることもなく生きて死んでいくであろう、どこにでもいるような人々の、しかしけっして平坦ではない、積み重ねられてきた人生、その歴史の深さがかもしだす、まぎれもない人間としての味わいがたしかに息づいている、ということである。そしてそれは、意識するしないに関係なく、生きていく過程において何かを選択し、その選択の結果に一喜一憂してきた歴史の厚みでもある。

 本書の物語は、常に一人称で語られていく。その大半は保険会社に勤務しているレイという男が主体となっているが、その主体はけっしてレイひとりだけに固定されることはない。もとボクシング選手で、今は八百屋を営んでいるレニー、葬儀屋のヴィッグ、そして死んだジャックの養子で、中古車の販売をしているヴィンス――ジャックの灰を入れた容器とともにマーゲイトへと向かう四人の男のあいだで、語り手は次々と移っていって、けっしてひとところにとどまることを知らない。どころか、ジャックの妻のエイミーや、ヴィンスの妻のマンディといった、弔いのドライブに参加していない女性のところまで一気に飛び移ったりさえする。そして、そんな彼らが語るのは、現在のことではなく、彼ら自身が体験した過去のことである。

 このように、本書には「ジャックの弔い」というメインのテーマがありながら、物語の筋がメイン一本に固定されることなく、さまざまな対象に移っては、まるで話を脱線させるかのように別の物語が立ち上がっていくという構造がある。こうしたある種の立体的な物語構造――いっけん何の関係もなさそうないくつもの物語の流れが、より大きな物語構造の一部と化しているという形式は、以前に読んだ同著者の『ウォーターランド』と同様のものであり、それこそが著者の描く作品の特長であることは間違いないが、『ウォーターランド』で感じられたような、過去を遡ることの果てしのなさ、その壮大な歴史の流れを思わせるようなものは、本書にはない。それはひとえに、本書のメインがあくまでひとりの人間の死、そしてそこにかかわる人々の記憶という範囲にとどまっているからに他ならないのだが、逆にいうなら、彼らが語る過去の記憶は、昔からの友人であったジャックが多かれ少なかれ関係していることが大半であり、それゆえに彼らは、ジャックの灰をマーゲイトの海に運ぶという弔いのドライブをするのと同時に、それぞれの過去の記憶を語ることによって、時間軸におけるジャックの弔いのドライブをおこなっている、とも言うことができるのだ。

 物語は、あくまでそれぞれの登場人物の主体によって語られていく。それゆえに、彼らにとってあたりまえの事実を、わざわざ読者のために語るようなことはない。だが、本書を読みすすめていくにつれて、彼らの人間関係や血縁といったものはもちろん、けっしてただの「友人」「親子」「夫婦」という言葉では片づけられないさまざまなしがらみや、複雑な心のうち、人間であるがゆえにどうしても抱えてしまう負の感情や愛情、そしてそれぞれが知られたくないと思っている数々の秘密などが、少しずつ立ちあらわれてくる。医者になりたいという夢をもっていながら、けっきょくは親の後を継いで肉屋の主人となったジャック――彼はそれからバーモンジーの肉屋であることも、生まれつき頭の弱く、何十年も赤ん坊の知能のまま施設で暮らしている長女ジューンに対する態度も変化させられないままに今まで過ごしてきた。それは言ってみれば、静の人生である。そしてようやく肉屋である自分をやめて、新しい人生を歩もうとした矢先に、深刻な病で息をひきとることになった。

 ある意味究極の静である死――しかし、物語はまさにここから動き出していく。ジャックの「最後の注文」は、それ以前にレイたちに頼んでいたさまざまな頼みごととは根本的に異なり、自分自身を変えていこうとすること、そのための第一歩を踏み出すことへとつながっている。その静から動へのダイナミズム、そしてそのことに牽引されるかのように、次々と隠されていた事実があふれ出てくる過程こそが、本書の最大の醍醐味だと言うことができる。

 おれにはできないってわかったんだ。そんな簡単におれは変われない、って。五十年だ。ジューンは自分がいくつなのかも知らないんだ。そうだろ? ――(中略)――だからそのときおれは思ったんだ。でもおれは別の仕方で変わることができるぞ、って。

 人生というものは人の数だけ存在し、それはけっして他の人生と比べられるものでも、また優劣をつけられるようなものでもない。そしておそらく、誰もが多かれ少なかれ自身の人生のおける選択の結果をおおいに悔やんだり、おおいに喜んだりして生きている。これまで変わることのできなかった人間が、その結果に対する怖れを乗り越えて自身を変えていくためのおおいなる選択を決意していく物語である本書を、ぜひとも楽しんでもらいたい。(2006.01.26)

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