【新潮社】
『スコットランドの黒い王様』

ジャイルズ・フォーデン著/武田将明訳 



 世の中には、どうしても好きになれない、自分とはとことん合わないという人物が必ずひとりかふたりはいたりするものだが、一人前の大人として社会に出て働くという身になれば、時にはそうした人たちとも付き合わなければならない状況というのが、当然のことながら生じてくる。「生理的嫌悪感」という言葉がどこまで有効なのかは知らないし、あるいは人は、その気になりさえすればどんな人ともそれなりに付き合いを保っていけるものであるのかもしれないが、少なくとも自分とは「生理的に合わない」と思っている人との付き合いというのは、やはり気が滅入るものであるし、できれば早々にその人から離れたいと思うのが正直なところだろう。

 それでも、相手が自分と同じように、自分のことをいけ好かない奴だと思ってくれているのであれば、まだ救いがある方だ。お互いに、あくまでビジネスライクに話を進めていけばいいだけのことであるし、ある意味相手のことは明確でもあるからだ。問題なのは、自分のほうは相手を嫌っていたり、それほど意識していなかったりするにもかかわらず、相手のほうが妙に自分のことを気に入ってくれているような場合である。人というのは、相手から好かれているとわかれば悪い気はしない。それだけ相手が自分のことを特別視してくれているということであり、それは一種のステータスにもなりうるものだ。だが、それでも自分の想像以上に相手から多大な好意を示されたりすると、そのギャップに困惑してしまうことになる。相手の好意の裏側に、何らかの意図――自分にとっては大きな損害をもたらしかねない何かを隠しているのではないか、という疑心暗鬼が生じ、どうしてもその真意を想像せずにはいられなくなる。そしてそれは、お互いに嫌っている者同士の付き合い以上に緊張を強いるものだ。なぜなら、何かがわからない、という状況は、人にとってたしかな恐怖の対象となりえるものだからである。

「終身大統領、陸軍元帥、巡礼者、博士であられる、イディ・アミン・ダダ閣下、ヴィクトリア十字勲章、殊勲章、および戦功十字章受勲者、地上のすべての魚の支配者にしてアフリカ全般、殊にウガンダにおける大英帝国の征服者が、この閣下の例年の祝典に招かれたカンパラの家臣とこの町の有力者を歓待する」

 本書『スコットランドの黒い王様』に書かれているのは、1970年代のアフリカ、ウガンダ共和国の大統領だったイディ・アミン・ダダのことである。そして、この男がどのような人物であったのかをもっとも端的に示しているのが、上述の引用文である。過剰な装飾文によって彩られた、いささか妄想の入り混じった肩書きを、何のてらいもなく自分の名前につけて恥じることのない独裁者――何ひとつ根拠もないのに、自分のことをスコットランドの最後の王だと語ってはばからない過剰なまでの自信に満ちた、きわめてユニークな、だがそれゆえにきわめて危険なこの人物のもとに、侍医として仕えることになった青年ニコラス・ギャリガンの一人称によって物語は展開していく。本書は、おもに彼が第三世界であるウガンダに医師として派遣され、そこで医療に従事するようになる前半部と、その後、ひょんなことからアミンのお気に入りになってしまったニコラスが、大統領つきの主治医となって彼のそばに仕えるようになる後半部のふたつの章で区切ることができるのだが、本書のメインともいうべきアミンが登場するのは、物語の後半部に集中しており、前半部はもっぱら語り手であるニコラスの物語という体裁をとっている。

 そのタイトルからもわかるように、読者にとって圧倒的に印象に残るのは、独裁者であり虐殺者でもあるアミンの存在である。大統領を中心とする作品としては、たとえばアンドレイ・クルコフの『大統領の最後の恋』があるが、アミンの場合、クーデターによって大統領の地位を強奪するという手段をとっており、それだけでもその過激さ、パワフルさのにじみ出てくるところがあるのだが、そんなアミンの思い込みの激しさになかば引きずられるように係わり合いをもってしまうニコラスの存在は、たんに物語の語り手、アミン大統領との対極という位置づけ以上のものがある。

 ニコラスという青年の人物像にもっともよくあてはまるのは、いわゆるモラトリアムな世代に属する人々である。厳格な牧師だった父親の反対を押し切るような形でウガンダにおもむいたニコラスであるが、そこに深い理念や医療への熱意といったものがあったわけではない。そのあたりの部分はくわしく書かれてはいないが、自分の生まれ育った場所からとにかく離れた土地で生活したいという漠然とした意思はあったのかもしれない。それは、たとえば日本の地方で生まれ育った若者が、一度都会に出てひとり暮らしをすることで、まぎれもない自分を見つめなおしたいと渇望するのとよく似たものがある。だが、政情の不安定なその国にあって、兵士たちの理不尽な横行はひどく、人々の暮らしはけっして良好とは言えない。下水の完備もできない不潔な住居事情、うだるような暑さがもたらす倦怠感と軍部の狂気のなか、熱帯特有の感染症や寄生虫による病気、銃や爆弾による怪我人が絶え間なく運び込まれるというウガンダでの日々は、どこか現実離れした雰囲気をニコラスにもたらしていく。

 まだ若く、それゆえに良くも悪くも世間の実情に染まっていない青年の心が、まるで幻覚でも見ているかのような麻痺状態へと陥っていく過程が、本書前半のなかにたしかに書かれている。なにせ、ニコラスが空港に到着したまさにその日にクーデターが起こり、その事実を人々が「よくあること」と受け流してしまうような世界である。そして、その中心にいるのがアミン大統領であるとすれば、確たる自己の確立していない、悪く言えば流されやすい性格のニコラスが、アミンのあまりに強すぎる個性にすっかり絡みとられ、一種の盲目状態となってしまっても不思議ではない。

 独裁者としての残忍な部分――拷問や虐殺を日常茶飯事とする血塗られた部分とは裏腹に、ニコラスがとらえる個人としてのアミンは、ともすると放屁や大便といった下品なものと結びつくことが多く、ときにユーモラスな姿を見せることさえある。だが、そもそもニコラスがなぜアミンの主治医となったのか、じつのところニコラス自身にもわかっていないというのが、本書の重要なところである。たしかに、ニコラスは彼の怪我を治療した。だが、それは医者としては当然のことであり、彼がそれまで見てきた患者とくらべれば、まさに「包帯を巻いただけ」という言葉はけっして誇張ではない。にもかかわらず、アミンは彼の医師としての腕を高く評価し、なかば脅すようにニコラスを自分のもとに置いてしまう。衝突事故を起こした大統領のスポーツカーと、衝突されて死にかけている牛が同居する、なんとシュールな場面でのんきに酒を飲むという状況が状況なら、その当の本人であるアミンの心理状態も、同じようにシュールで不可解きわまりないものだ。そして、そうした彼の性格は、彼が巨大な権力を惜しみもなく振るうことができるという事実と結びついたとき、ある種の恐怖として相手をとらえてしまうことになる。

 アミンはたしかにニコラスのお気に入りのようである。だが、その気持ちは今後もつづくとはかぎらないし、そもそもなぜお気に入りになっているのかがわからない。そしてわからない以上、どのような理由でその寵愛からはずれてしまうのかもわからないし、一度機嫌を損ねれば、まぎれもない現実としての命の危険にさらされてしまう。本書を読んでいて思うのは、たんにカリスマと呼ばれる人たちが、いかに人の心をとらえ、自分の都合のいいように動かしていくか、ということばかりでなく、自分の意思とは関係ないところで、何もかもが勝手に決定され、物事が進んでいってしまうという弱者ゆえの不条理感である。じっさい、ニコラスはアミンの主治医という立場にいるという、ただそれだけの理由で某国からアミンの暗殺を頼まれたりするのだが、「正義」の名のもとに、自分たちの手を汚さずに政敵を葬ろうとする先進国のやり方は、ある意味アミンの独裁政治とたいした違いがあるわけではない。とくに、ニコラスのような立場にいる者にとっては、どちらも個人の意向を無視する逆らい難い力でしかないのだ。

 人を支配するということ、そして人に支配されるということ――そこには大きな力が常にはたらいているものであるが、巨大な力というのは、恐怖の対象であると同時にこのうえなく人を魅了する対象ともなりうる。はたして、アミンという巨大な力にとらえられたひとりの青年医師が、そのそばにいることによって、その未成熟な心のなかにどのような化学反応を引き起こすことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2007.08.24)

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