【光文社】
『最後の願い』

光原百合著 



 小さい頃、とかくいろいろなものに影響を受けやすかった私は、大好きなゲームや漫画、あるいはテレビの戦隊ヒーローものに登場する格好良いキャラクターの口癖や動作をまねてみたりすることがしばしばあったのだが、たとえば学校といった現実の自身の生活の場において、そうした言動を誰かに披露してみても、自分が思っていたような効果が表われないどころか、ふざけるなとこっぴどく叱られることさえあったのをよく覚えている。今にして思えば、そうした登場人物たちの格好良い立ち居振る舞いは、いかにもそれが映えるべき条件を満たしているがゆえにカッコイイのであって、状況や立場を無視して、ただたんに彼らの真似をしたところで現実から浮いてしまうのは至極当然のことだ。

 そんなこともあってか、私にとって何かの役を演じるという行為はかならずしも良い印象と結びつくわけではないが、実生活において私たちは、多かれ少なかれ何らかの役割を演じているのではないか、と思うことがある。たとえば、会社員としての自分、配偶者としての自分、子どもの親としての自分、あるいは誰かの教師としての自分や後輩としての自分など、人間関係を円滑に進めていくために、本心を押し隠してその場その場にふさわしい役目を察し、演じ分けていく――それが一人前の大人の対応だと言われれば返す言葉もないのだが、それでも望んでもいない役柄を演じなければならないような場合に、ふと「役者」という肩書きをもつ人たちのことを考えずにはいられない。

 彼らは言ってみれば、望んでさまざまな人物の役を演じる者たちだ。一見すると自身の演じる役に縛られているようにも思えるが、演じるという行為そのものを積極的にとらえている、という意味では、そうせざるを得ない立場にいることの多い私たちなどよりも、逆に自由な精神をもてるのではないか。彼らは何者にでもなることができる。それこそが役者、アクターとしての魅力なのではないか、と。

 だからそれはね、俺が役者だからです。役者ってたった一行のセリフしかない役をやるときでも、それがどういう人物でどういう背景をもっているからそこでそういう言葉を口にしたのか、考えずにはいられないんですよ。

 本書『最後の願い』は、七つの作品を収めた連作短編集という形をとっているが、この一連の作品におけるタイトルの区切りは、そのまま章としての区切りと考えてもかまわないほど、「連作」としての意味合いが強く、じっさいに本書を読み進めていくと、そこには新しい劇団の立ち上げから記念すべき初回公演までの、一貫した物語の流れが見えてくる。そしてその新しい「劇団φ」の代表である渡会恭平が、あるいは彼と腐れ縁的な関係にあるさすらいの役者風見爽馬が、自分たちの眼力にかなう劇団員やスタッフ、スポンサーといった人物と接触をはかったさいの出来事を書いたのが、それぞれの短編ということになっている。

 演劇というテーマを扱った作品ではあるが、一連の物語としてはあくまで劇団の立ち上げがメインであり、じっさいに彼らが演劇を行なう場面はごくわずかである。だが、にもかかわらず、その中心たる渡会恭平や風見爽馬といったキャラクターについて、私たち読者はそこに役者としての彼らを見出すことになる。もちろん、彼らのいかにも演劇人めいた個性の強烈さ――とくに、このふたりが揃うとそれぞれが突っ込みとボケという漫才に発展するという面白さもあるが、それ以上に重要なのは、彼らが探偵役となって真相を明らかにする事件の要素である。

 ここでいう「事件」とは、いわゆる「日常の謎」に分類されるもので、殺人事件の真犯人を突き止めるといったたぐいのものではなく、ある人物の身に起こった不可思議な出来事について、その真相がどのようなものなのかを推理していくというパターンをとることが多い。本書の場合、渡会恭平や風見爽馬が探偵役を担うことになるのだが、彼らはあくまで「役者」としての立場から事件を推理していくのだ。具体的には、不可解な言動をとった人物の役になりきる、という方法であるが、それ以前に、役者という立場を勤めているがゆえに、こと演技という点については矜持ともいうべきものを内に秘めていたりする。そして、本書内で起こる「日常の謎」には、すべてこの演劇という要素が深くかかわっているという共通点がある。

 ……脚本家がよく使うやり方です。登場人物は何かを隠そうとしている、そして観客には隠そうとしていること自体を伝えなければならない。そういうときに、口をすべらせた、という格好であんなふうに言わせるんです。

 よくよく考えてみればわかることであるが、たとえば、演劇や小説といった創作物における登場人物たちのセリフは、じっさいの生活における私たちの話し言葉と比べてオーバーアクション気味であったり、理路整然としていたりするものであって、もしそうした話し方をリアルの場で再現してみせたとしても、逆に不自然さばかりが目立つことになる。そうした不自然さを目ざとく見抜いた彼らは、そこから当事者が何を演じたかったがゆえの不自然さなのかを推理する――天真爛漫なお嬢様がどんな自分を演じたかったのか、携帯電話にかかってきた見知らぬ美女には何の目的があったのか、ライバルだった男の妻に睡眠薬を飲ませた男はどんな真実を隠そうとしたのか、そして恋人だった男の死の裏には、どのような過去があったのか。

 人が現実の生活の場において何らかの演技をする場合、意識するしないにかかわらずそうすることで起こる何かに期待しているからに他ならない。それは、かならずしも心地よいものばかりではなく、ときに人の心の醜さを垣間見せるようなこともあるが、そうした部分もふくめて、役者というのは他ならぬ人間を演じる者であることが、本書からは強く伝わってくる。そして私たちは知らず知らずのうちに、そんな彼らが立ち上げようとしている「劇団φ」が見せてくれるものに大きな期待を寄せてしまうのだ。とにかくクセのある彼らが演出するものを、ぜひとも楽しんでもらいたい。(2011.06.28)

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