【光文社】
『リロ・グラ・シスタ』

詠坂雄二著 



 ここ数年、サブカルチャーの分野で「セカイ系」という単語を目にするようになっている。この言葉が厳密に何を意味するのか、という点については私にも今ひとつわかっていないところがあるのだが、本来「世界」という一般的な漢字があるにもかかわらず、あえてカタカナで「セカイ」と呼び表わしているからには、従来私たちが認識している世界――私たちの生活の場として機能する、まぎれもない現実世界とは異なる要素をもつものであることを強調したいという意図があることがうかがえる。

 では、私たちの周囲に広がる現実の世界、リアルとしての世界が何なのかといえば、それはけっきょくのところ、自分という主体と、自分以外の多くの他者で構成されている「世界」という名の漠然とした価値観との関係性、その距離感といったところに集約されていく。たとえば、小さな子どもの頃は、世界と自分はわかちがたく結びついたものだ。自分はまさに世界の中心であることを疑わない――それは、自分という主体がまだ完全に確立されていないがゆえの一体感とも言えるが、成長とともに人は世界というものが、かならずしも自分の思いどおりにならないもの、自分という主体無しでも存続し機能し続けるものであることを知り、そうした「世界」のありように自分自身をすり合わせて生きていくようになる。あるいは、自分の考えが正しいと信じて疑わないような人であれば、自分ではなく世界を変えていくために啓蒙活動に走るという選択肢もあるかもしれないが、いずれにしろ自分と世界との関係性という枠は変わらない。

 今回紹介する本書『リロ・グラ・シスタ』を読み終えたとき、いや、そもそも最初の数ページを読んだときには、すでに私の脳裏にこの「セカイ系」という単語が浮かんできたのだが、それほどまでに本書のなかに広がる世界は、私たちのよく知るリアルな世界と比べて違和感を覚えるものである。そして、その違和感の最たるものが、本書のなかで一人称の語り手を担う「私」の主体のあり方である。

 なにしろ、本書の語り手は私立吏塚高等学校の生徒でありながら、その口調や物腰、考え方が完全にハードボイルドの私立探偵という、まったく高校生らしくない要素を身にまとっているのだ。手品部の部長、学校内のさまざまな揉め事を解決する名探偵、そうした要素がじつにささいなことに見えてしまうほど、語り手の思考は、まるで世の中のさまざまな艱難辛苦を味わい、なおかつそれらを達観したかのように老成し熟成しきった中年男性そのものであり、そうした雰囲気は、常に語り手が十代の高校生であるという基本設定と衝突するものでもある。

 学校内でも平気で煙草をふかし、探偵稼業を「仕事」と割り切って人の情といった要素から常に一歩距離を置くような態度やセリフ、そのくせ、どこかでそうした人間的な温かみや人情とつながらずにはいられないという矛盾した姿勢など、今時見つけることが難しいほど徹底したハードボイルド的雰囲気は、むしろ過剰であることを前提とした演出だととることもできる。そして本書に登場する主要な高校生たちは、いずれも何らかの役割をもち、その演出が「高校生」という、彼らが本来もっているはずの要素から彼ら自身を乖離させている。情報屋の楽山隆昭、愛情を売り歩く空咲瑤子、あくまで商売としての脅迫魔である葉群優基――いずれも高校生というよりも、そうした稼業でもってアイデンティティを成り立たせているようなところがあるのだが、それは、彼らが私立吏塚高等学校というある種の閉じた「セカイ」のなかの住人であるところが大きい。

 ここには耳目がない。
 誰の注意も向けられていない。
 事実がどうだろうと、そんな雰囲気がある。世間という他人を気にしなければ、自らを律することなど出来はしない。暴走は際限なく加速する。

 高校でありながら、その生徒と同じくらい重要な要素たる教師の存在が、本書のなかではかぎりなく希薄である理由も、またその授業風景がほとんど描かれていないのも、私立吏塚高等学校という場が現実における高校ではなく、別世界のひとつであると考えれば納得がいく。語り手がそこで探偵稼業を成立させ、さらにはある程度の名声も得ているという理由も。そうした、限りなく閉じた「セカイ」のなかで成立する物語について、あるいは現代における相対主義、あるいはディスコミュニケーションの様相などと結びつけて考えるのは、それはそれで面白そうではあるが、ここで重要になってくるのは、本書があくまで本格ミステリーという形式を踏襲しているということ、そして本書におけるハードボイルド路線が生み出す危うい違和感そのものが、読者を欺くためのトリックのひとつとして機能している、という点である。

 名探偵がいれば、当然のことながら事件が起きる。本書もその例外ではなく、脅迫魔たる葉群が校舎の屋上で死んでいるのが発見される。そしてそこにあるのは、屋上で発見されたにもかかわらず、その死因が墜落死であるという不可解な謎だ。はたして葉群は自殺なのか、あるいは他殺なのか、他殺なら誰が犯人なのか、そしてその死因が墜落死であるなら、どうやって死体を屋上にはこんだのか? 校内セキュリティーにおける時間の制約によって不可能殺人の態を成すなか、とある生徒の依頼を受けた語り手が事件の調査に乗り出す。現実的な視点に立つならば、そもそも高校生が警察を出し抜いて殺人事件かもしれない案件の調査をすること自体リアルではない。だが、本書にはすでに私たちのよく知る世界と乖離した「セカイ」の舞台が、そのはじまりから整えられている。そして、そんな閉じた世界のなかで、ハードボイルド路線と本格ミステリー路線が混在しているという事実が、さらに読者を本書の本質から引き離していく。

 本格ミステリー路線であれば、どうしても謎に対するハウダニッドのほうに目が行く。だが、ハードボイルド路線であれば、どちらかといえばホワイダニッドのほうが重要になってくる。本書がそのどちらを主体としているのかは、最後まで読んでいかないと定まることはない。そんなきわどい均衡のもとに、本書は成り立っている。

「セカイ系」の登場人物たちは、私たちが生きる「世界」を、そもそも問題としていない。だからこそ、たとえば自分の大切なもののためにすべてを賭けるといったことを平気でやるし、それが許される世界が展開されている。だが、そうした「セカイ系」であることを前提としたうえで、それを逆手にとるような物語を、私はほかに知らない。はたしてあなたは、本書のなかにどのような「セカイ」を見出すことになるのだろうか。(2008.11.16)

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