【集英社】
『ラスト、コーション』

アイリー・チャン著/南雲智訳 



 詳細な表現は忘れてしまったのだが、以前紹介したルル・ワンの『睡蓮の教室』のなかで、女性、とくに既婚女性を侮辱する言葉として「女しか生まない」といった表現があったことを覚えている。『睡蓮の教室』の舞台となっているのは文化大革命時の中国であり、つまりはそれが、その時代のその国における女性の地位をこのうえなく象徴するものだと言えるのだが、そうした男尊女卑的な風潮はかつての日本でも見られたものであるし、人によっては今もなお色濃く残っていると感じていることかもしれない。

 私は男であるし、そうである以上、女性の心理をどうこう語ったところで何の信憑性ももたせられないのだが、それをあえて承知で語るとすれば、とかく夢見がちで、どうでもいいようなプライドばかりを大事にする男とは違って、女はいち早く現実に目を向けるし、その現実における自分自身の価値を――あるいは、自分以外の男女の価値観についても――ある種の鋭さをもって推し量っていこうとする一面があるように思える。

 彼女たちがとらえる現実とは、男中心の社会のことだ。その男どもが自分をちやほやすれば、当然のことながら彼女たちは自分の容貌や身体に魅力があるということを自覚するし、また自覚せずにはいられない。むろん、それは女性にちやほやされるハンサムな男たちについても同じようなことが言えるのだが、自分が生まれつきもっているものが、その社会で生きていくための、あるいはのしあがっていくための「武器」となりえる、という感覚が、もし男よりも女のほうが強いのだとすれば、それは社会が今もなお男中心で動いているからだ、という見方もできる。そうした「現実」に、当の本人がどのような気持ちや葛藤を抱いているのかは別にしても、である。

 本書『ラスト、コーション』は、文庫本の表題であり、また映画化された同タイトルの原作となっている『色・戒』を含む四つの短編を収めた作品集である。そしてこの書評において、あえて女性はこうだと定義するような冒頭をもってきたのは、『色・戒』に登場する王佳芝が果たそうとしている役割に由来している。それは、当時上海や香港を占領下に置いていた日本軍傀儡政権に与し、諜報活動の元締めとして台頭していた易に近づき、暗殺の手引をする、というものである。

 計画は佳芝をふくむ学生グループたちが仕掛けたもので、二年という期間をかけて周到に準備されてきたものである。そして冒頭部分では、すでに麦夫人として易家に取り入ることに成功していた佳芝が、いよいよ計画を実行するか、それとも断念するかの瀬戸際に立たされている状態だ。易自身、暗殺という点で何かと用心深いところがあるのだが、それ以上に易の夫人が不審をいだきつつあるのでは、ということも、彼女のなかで大きな懸念材料となっている。そうした佳芝の心情については、はっきりとした言葉で書かれているわけではないのだが、たとえば冒頭におけるマージャンの場面で、その容貌と若さ以外は何かと見劣りしてしまう佳芝とは対照的に、三人の夫人たちが指にはめている、あきらかに高級な宝石のきらめきといった形で、三人と彼女との決定的な差異となって強調されている。

 かつて、愛国史劇での演技力を買われ、易を色仕掛けでたらしこむという役割を演じることになった佳芝と、そんな彼女に傾倒しながらも、なかなか決定的な隙を見せようとしない易――はたして、彼は自分の正体をどこまで見抜いているのか、あるいは見抜いていないのか、逆に佳芝は易の気持ちをどこまでつかんでいるのか、という腹の探りあいにも似た緊張感が本短編の全体を支配している。それはたしかに、本書の大きな特長のひとつであることに間違いないのだが、おそらく本短編を読み終えた読者が何より疑問に思うことがあるとすれば、はたして佳芝は本当に易を愛してしまったのか、という点であり、また易は佳芝という女性に、心底惚れ込んでいたのか、という点でもある。

 『色・戒』にかぎらず、本書に収められた短編は、いずれも登場人物たちの心情という点では、たしかな表現を意図して排除しているところがある。あるいは書かれていることもあるのだが、あまりにも何気ない表現で済まされているために、ともすると見落としてしまっているのかもしれないが、あえて強調せずにすませた、というのが真相だろう。なぜなら、易や佳芝の心情をはっきり表現してしまうと、本書のテーマから大きく外れることになってしまうからだ。

 では本書のテーマは何なのか。中心人物である佳芝の心情や意志がかぎりなくぼかされているという性質上、愛国心や正義といった観念的信念を示すことはあてはまらないし、男女の恋愛がテーマであるとすれば、あまりにお互いの感情のやりとりが淡白である。とすれば、ひとつ考えられるのは、そうした個人の意思がどうであろうと、ある大きな流れによってひとつの方向に巻き込まれてしまうことの悲哀――個人というものの小ささ、無力さといったものをこそ、描きたかったのではないか、ということである。

 たしかに佳芝には演技力があり、また女性としての魅力に溢れている。だが、その自身の能力を、自分のためだけに用いることを許されない、あるいは自分のためという意志をもたせないようにするような風潮が、第二次大戦中の中国にはあった。戦争という異常事態、それも、自国より強力な軍隊を相手に戦わなければならないという当時の状況が、彼女をして暗殺計画のキーマンに仕立て上げられるという流れを生み出してしまった。もちろん、彼女自身の意思もあったろうし、彼女との関係を匂わせている学生グループのリーダの意思も絡んでいたかもしれない。だが、もし時代が時代でなければ、もっと違った道があったはずだという思いはあってしかるべき視点である。そしてそれは、傀儡政権の手先となった易にしても同様である。

 けっきょくのところ、ふたりのあいだには起こってしまった結果しか示されない。ふたりにとって悲劇だったのは、自分たちの意思が、自分たちをとりまくさまざまな要素によって、すでに選択の余地のないものとなっていることに、気がついてしまったからこそのものだと言える。

 この人は本当に私を愛している。いきなりそう思った。すると激しい炸裂音が胸の中で起こり、何かを失ってしまったように感じた。
 遅すぎたのだ。

(『色・戒』より)

 『色・戒』以外の短編についても、多かれ少なかれ個人の意思ではどうにもならないところにまで、物事が流れていってしまうという状況が書かれている。とくに、女性の好きだという感情が、当人以外のさまざまな要素によってねじ曲げられ、歪められていく様子を描くことにこそ、著者の真骨頂がある。そして、戦中戦後の中国という国がひた走っていた、異常としかいいようのない歴史を考えたとき、仮に映画化というイベントを経たものであったとしても、本短編集が世に注目されるようになった意義は、私たちが考える以上に大きいものがあると言えよう。(2008.03.27)

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