【新潮社】
『ロスト・シティ・レディオ』

ダニエル・アラルコン著/藤井光訳 



 テレビを見ながら食事をするとか、ラジオを聞きながら勉強するとかいった、いわゆる「ながら作業」が苦手な私は、本を読むときも部屋を静かにして、できるだけ読書に集中できるような態勢を整えるのが常だ。そして今現在、しがないサラリーマンという身の上である私の平日の空き時間はそれほど多くはなく、その大半を読書に費やしている。当然のことながら、それ以外の時間――たとえばテレビを見たり、ラジオや音楽を聞いたりといった時間は極端に少なくなっているわけだが、それでもテレビとラジオ、どちらに親近感をおぼえるかと訊かれれば、おそらくラジオと答えるだろう。

 ラジオは基本的に、音声しかないメディアである。同じメディアでも音声と映像を組み合わせることができるテレビという媒体は、しかし音声よりも映像のほうに重きを置いているところがある。それはつまり、テレビの視聴者がテレビの画面を見るという行為を前提に番組をつくっている、言い換えればいかに「見せるか」を重要視しているのに対し、音声しかないラジオは、いかに「聞かせるか」に力を入れざるを得ない。そして、ラジオで人気のあるパーソナリティの声というのは、たんなるお喋りができればいいというわけではなく、その声質にひとつの特色があることが多い。それは、声を聞く不特定多数の視聴者たちに、他ならぬ自分に語りかけていると感じさせる声質、何らかの共感性を多くのリスナーに与えられる声の持ち主であるということだ。たとえばテレビの人気タレントをラジオのパーソナリティに置き、テレビ番組であるかのように放送したとして、必ずしも人気が出るわけでないのは、その声がただの音のように平坦で、聞き手に届かないからに他ならない。

 人間の声というのは、当人が考えている以上にその人の人柄を特徴づける要素となりうるものだ。私がどちらかといえばラジオのほうを贔屓にするというのは、そのあたりのことも関係しているのだが、今回紹介する『ロスト・シティ・レディオ』のラジオパーソナリティであるノーマの声は、はたしてどのような響きをもっているのだろうと想像せずにはいられない。

 その声は彼女の最大の財産であり、キャリアにして運命だった。エルマーに言わせれば、それは「共感の香りを放つ黄金の声」だった。君が「おはよう」と言うたびにまた恋の落ちるんだ、と消息を絶つ前のレイは言っていた。

 行方不明になったり消息がわからなくなったりした家族や知り合いをもつ市民からの電話を受け、彼らの話に耳を傾け、そしてラジオの電波を使って呼びかけるという深夜のラジオ番組「ロスト・シティ・レディオ」――ときには感動の再会の手助けをすることもあるその放送は局の人気番組のひとつであり、パーソナリティを勤めるノーマもちょっとした有名人となっていた。本書はそんなノーマと、彼女に読んでもらうための行方不明者リストを携えて、一七九七村から首都にやってきた少年ビクトルをめぐる物語であるが、ジャングルをふくむ広大な土地を治める架空の国を舞台とする本書において、どちらかといえば地味な部類に入るノーマのラジオ番組が好評を博しているその背景には、その国がたどってきた長い内戦が大きな影を落としている。

 本書冒頭時点で、その内戦はすでに終結し、そこから十年という時間が経過している。首都をはじめとして国の各地では復興と近代化が盛んであり、「不法集団(IL)」と名づけられた反乱分子に勝利した当局は、そうした戦争があったこと自体を忘れ去ろうとしているようにさえ見える。たが、長きにわたった内戦はさまざまな形で人々の心に大きな傷を残し、また地方のあちこちでは、ILの生き残りがしぶとくテロやゲリラ戦を続けており、本当の意味で戦争が終結しているわけでないことが、本書を読み進めていくとわかってくる。ノーマのラジオ番組は、そんな社会不安を利用して利益を上げようとする局の不遜な方針の産物であり、だからこそ好評を得ているという図式が成り立つわけだが、当のノーマ自身もまた、この番組をある目的のために利用できないかと考えているところがあった。ラジオをつづけること――それは彼女の夫であり、戦争終結直前に行方知れずになったレイの消息をつかむという目的にもつながるとノーマは考えていた。

 もしどこかで、レイが彼女のラジオ番組を聞いていたとしたら、彼はきっと自分のところに戻ってくるに違いない――それはいかにもロマンティックな想像ではあるが、ノーマとレイとの関係はもう少し複雑で、またかつての内戦が大きく絡んでいることでもある。彼女はレイを深く愛していた。だがはじめてレイと出会ったとき、彼はレイとは別の名前の身分証明書をもっていた。そしていつのまにか、彼はILの首謀者のひとりであり、反逆者として今もなお当局から指名手配されているという状況になっていた。そこには、ノーマがよく知るレイ――植物学者であり、ちょくちょくジャングルに出かけては珍しい植物の採取や調査にあけくれて、そして自分を愛してくれているように思えた男との大きな乖離が存在している。

 はたして、レイとはいったい何者で、内戦とどのような関わり合いがあったのか? さまざまな登場人物の過去と現在をたくみに行き来しながら、次第に謎の全容が浮かび上がってくるという構造をもつ本書であるが、その全容を埋める重要なピースのひとつとして、ビクトルが登場する。彼の生まれ故郷である一七九七村は、レイが消息を絶つ直前に立ち寄ったとされる場所であり、今も彼の名前を出すことすら危険な状況において、それはノーマが知りえるわずかな手掛かりだった。そしてビクトルが持参した行方不明者リストのなかに書かれている、レイのもうひとつの名前――まさに、ビクトルが起爆剤となって、それまでレイの生死もわからないまま、ただラジオをつづけながら待つしかなかったノーマの止まった時間が動き出すのだが、それと呼応するかのようにレイの隠された過去が明らかになっていくというそのダイナミズムは見事というほかにないものだ。

 そう、ノーマはたしかに待ち続けていたが、それはかならずしもレイが自分のもとに戻ってくるのを待っていたわけではない。本書を読み進めていくと薄々気づくことであるが、ノーマはレイが十中八九死んでいるのだろうと思っている。思ってはいるのだが、それをたしかめる術は彼女にはないし、当局がそれを許さない。言い換えるなら、十年にわたる内戦を勝ち抜いた国家の強圧な体制が、個人のさまざまな自由や行動を制限している状態に、ノーマたちは置かれているということになる。街のあちこちで今も見かける銃をかまえた兵士たちの姿や、過去の回想に登場する軍の収容所の存在、戦争時にあちこちで行なわれた虐殺や圧政、見せしめのための処刑や拷問といった血なまぐさい出来事など、まるでどこかの独裁国家を思わせるような、どこか息苦しいほどの圧迫感は、本書の舞台が架空の国であることを忘れさせるようなリアリティをかもし出すのにひと役買っている。

 そんななか、ノーマはレイの別名が書かれた行方不明者を携えた少年と出会う。そしてそれは、今までどんなに知りたくとも知りようがなく――また、一方でそのすべてを知ることを恐れてもいた、レイのもうひとつの顔とその人生をあきらかにし、ずっと不安定な状態だった彼との過去になんからの決着をつけるためのきっかけとなる。むしろ、そのためにこそ、本書『ロスト・シティ・レディオ』は書かれたのだとさえ思えてくる。

 残ったものとは、一瞬のきらめき、思い出、幸福になろうとした試みだった。もう何年も、彼は完全には死んでいないのだと想像し、その周囲に自分の人生を成り立たせていた。彼を見つけること、待つこと。

 戦争終結後、政府は国の町村につけられていた名前を排除し、ナンバーで呼びあらわす方針を打ち出した。そして終戦から十年が経って、なおその名前すら呼ぶことを許されていない人々がいる。急速な近代化とともに首都に溢れる難民たち――そんな人々が暮らす首都の深夜に、彼らがまぎれもないひとりの人間であることを、名前を呼びかけることで成立させている「ロスト・シティ・レディオ」は、まさに失われたものたちへの鎮魂歌として、今日も人々の心に届いていく。それは、政府がどれだけ躍起になって消し去ろうとしても、けっして消すことのできない人間の記憶の歌でもあるのだ。(2012.10.21)

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