【新潮社】
『八月の光』

ウィリアム・フォークナー著/加島祥造訳 



 殺人という行為は、人の命という、一度失えばけっして取り戻すことのできないものを奪い取るという意味で、このうえなく重大な犯罪であることに異論はないが、そんな重大な犯罪に手を染めた犯人の動機は何かと考えはじめると、とたんに私たちは、暗闇のなかを手探りして進んでいるかのような心もとなさを感じずにはいられなくなる。人が他ならぬ人を殺す――それは私たちにとって、死の本質を理解しえないのと同様に、人間としての理解を超えたものという認識が基本的にはある。死は、言ってしまえばわけのわからないものであり、それゆえに恐怖の対象となりえるものだ。できればそんなものは近づけたくはないし、また近づきたいとも思わない。殺人は、そうした恐怖のもとを暴力的に突きつける。私たちは殺人をつうじて、わけのわからない死というものに、さらにはそんな死をもたらすものとしての人間というものに、否応なく対峙しなければならなくなるのだ。

 よくテレビのニュースや大衆誌などで、殺人事件の犯人の過去について特集したりするが、これも犯人の動機という、本来であれば理解しがたいものを無理やりにでも理解するための、ひとつの方法である。だが、よくよく考えてみればわかることではあるが、たとえば過去に虐待された経験をもつ者が、すべて殺人を犯すというわけではなく、けっきょくのところそれらの情報は、たんに私たち大衆が、殺人事件の動機というわけのわからないものに対して、いかにもそれらしい理由を付加することで安心するためのものでしかない。私たちの周囲にいる大勢の他人は、私たちと同じ人間でありながら、しかしお互いのことを決定的に理解することはできない。自分と他人とで、まったく同じ価値観を有しているわけではない、という事実――今回紹介する本書『八月の光』を読み終えたときに、私がまず感じとったのは、人と人とのつながりというよりは、人と人とが断絶し、孤立しているという、けっして心地よいものではない雰囲気である。

『そうさ、彼らは喜んでそうするさ――(中略)――というのも、あの男を憐れんだりすればそれは彼ら自身への疑問を生むことになるからだ、彼ら自身を憐れむ希望と必要を生むことになるからだ。だから彼らは喜んであの男を磔にする十字架を建てるのだ。喜んで。それが恐ろしいところなのだ、全く恐ろしい、恐ろしい』

 本書はミシシッピ州にあるジェファスンという町を舞台としているが、その町にリーナ・グローヴがやってくるところから物語ははじまる。すでに臨月を迎えている彼女は、いつか迎えに来ると信じていた男を待っていることができず、わざわざアラバマからヒッチハイクを続けてきたのだが、その旅の途中で、彼女の探しているルーカス・バーチがこの町の工場で働いているという情報を耳にしたのだ。だが、製材工場を訪ねたリーナが見つけたのは、バーチではなくバンチ、バイロン・バンチという名の中年男性であり、彼女の探している男とは別人だった。だが、彼女の話を聞いたバイロンは、彼女の探している男がブラウンと名乗ってここで働いている新参者であることを看破する。

 このブラウンという男、同じく製材工場ではたらくジョー・クリスマスと名乗る男とつるんで、ブランデーの密売に手を染めており、この時点で彼がリーナを迎えに行くどころか、真面目に働くことすら考えていないただの軽薄な女たらしであることがわかるのだが、このふたりが出会うことでどんな展開が繰り広げられるのか、という流れになるかと思いきや、物語の焦点はリーナからジョー・クリスマスのほうに移っていく。というのも、リーナが製材工場を訪れたそのとき、ある大きな事件が起こるからである。それはある一軒屋が火事になり、さらにその家に住んでいた女性が首を切られて殺されているというショッキングなものであるのだが、その容疑者と目されているのが、他ならぬクリスマスなのだ。

 と、こんなふうに本書のあらすじを書いていくと、中心となる人物はリーナとジョーであり、このふたりと接点のある人物としてブラウンがいる、という構図となっているが、本書が単純に、リーナやジョーがジェファスンという町で引き起こす騒動と、その結末を書いたものだと判断するのは早計であるし、そもそもそのような説明で本書のことを到底語ることはできない。なぜなら本書をどこまで読んでいっても、リーナやジョーがどのような理由をもって動いているのか、その決定的な部分は見えてこないからである。それどころか、ジョーのジェファスンでの殺人行為については、その直接的な場面は書かれておらず、あくまで状況証拠的に彼が疑わしいといった程度なのだ。だがここに、当時のアメリカを象徴するような黒人蔑視という視点が入り込むことで、ジョーの行為や立場が複雑で微妙なものとなってくる。

 俺はクリスマスのことを言ってるんだ――(中略)――やつは黒ん坊の血を持ってるんだぜ。ひと目みた時に俺は悟った。――(中略)―― 一度なんぞやつはそれを認めたんだ。自分は黒ん坊の血を持ってると俺に言ったんだ。

 ジェファスンのあるアメリカ南部は黒人に対する差別が根強く、というよりも黒人を奴隷として使役することを肯定するのが常識となっており、この地で黒人であること、その血が一滴でも混じっていれば、それだけで憎まれたり軽蔑されたりすることがまかり通るような状況にある。そしてジョー・クリスマスは見た目は白人ではあるものの、その体に黒人の血が流れているとされている。とくに本書中盤を占める彼の過去を描いたエピソードでは、その血のせいで何度も理不尽な目に遭ったりしているのだが、ここで重要なのは、見た目は白人なのに黒人扱いされるという立ち位置の中途半端さであり、さらに言うなら、本当に彼の父親が黒人なのか、その真相を知る術が彼自身にも、また私たち読者にも存在しないという事実である。

 その微妙な立ち位置――自分のルーツを確定することができないという不安定さのせいで、白人社会にも黒人社会にもなじむことができずにいるジョー・クリスマスは、やがて人間社会そのものに反逆するような行為を繰り返すようになる。だが、こうした彼に対する理解は、あくまで私たち読者の勝手な解釈であって、彼の生き方の本質をつかんでいるというわけではない。そういう意味で私たち読者もまた、ジョーが「黒人の血を引いている」という曖昧な情報だけで、彼が殺人犯であることを疑わないジェファスンの住人と同じく、彼を理解し得ない立場にいるのだ。そしてこの「人が人を理解し得ない」という感覚は、本書全体に貫かれているテーマのひとつでもある。

 じっさい、ジェファスンにやってきたリーナにしても、自分を置き去りにした男がいまだに自分のことを想っており、自分を迎えるための準備をしてくれていると信じて疑っていないところがある。そしてこれは、たとえばバイロンといった第三者がどれだけ説得してもまったく聞く耳をもたないほど、彼女にとっての真実と化してしまっている。ただし、リーナのその心の底でどのような思いが渦巻いているのかは、本書のなかではあきらかにされていない。私たちに分かるのは、あくまでリーナがブラウンことルーカス・バーチと結婚し、妻になることを目的に彼を追いかけているということだけである。

 本書の文体は非常にクセがあり、登場人物の思考の流れや声に出さない独白などが独自の表現で表わされていて、それらがふつうの会話文に入り混じるような構成になっていたり、物語の主体や時間軸が唐突に切り替わったり、前後したりする。それゆえに読者はどこに軸を据えて読めばいいのか混乱するのだが、何より私たちを戸惑わせるのが、登場人物の主幹となる行動原理が見えてこない、という点である。そして本書は、それをなかば意図的に行なっているようなところがあるのだ。そういう意味で、本書は「理由なき殺人」をあつかったトルーマン・カポーティの『冷血』のスタイルと似ているとも言える。

 ある人物を形成してきた過去というものがあり、しかしその過去とは無関係に、人々はある人物を自分勝手に判断する――私たちは自身の歩んできた過去をけっして無視することはできないが、すべてがその過去によって決定されているわけでもない。ジョー・クリスマスがたどることになる運命については、たとえばキリストとの類似などが見られる部分があるのだが、いっぽうでそうした解釈もまた同じような決めつけでしかないことを思い知らされる。けっきょくのところ、私たちはジョー・クリスマスの行なった一連の行動に説明をつけることはできず、それを他の誰かの解釈にゆだねることもできないのだ。そしてこれは、ひたすらブラウンを追い続けるリーナにしても同様である。どう考えても、彼と一緒になることがリーナの幸せになるとは思えない。では彼を追いかけて、それで彼女が何を求めているのかも、じつのところ私たちにはよくわからない。わからないままに、私たちは登場人物たちの言動を追うことしかできない、というのがじっさいのところである。

 物語のあらすじとしては、けっして凝った内容というわけでもない本書は、しかしそこに登場する人々のある種の断絶感――人が人を本質的に理解できないという真理をこのうえなくリアルに描いてみせた作品だと言うことができる。はたしてあなたは、この作品にどのような思いをいだくことになるのだろうか。(2014.07.13)

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