【早川書房】
『解錠師』

スティーヴ・ハミルトン著/越前敏弥訳 



 私のこれまでの読書体験において、過去への時間跳躍をテーマにした小説とめぐり合う機会がわりと多いと感じることがある。現実にはけっしてありえない、ということはそれだけリアル感に乏しいこのテーマが、それでもくり返し小説の題材としてとりあげられるというのは、それだけの魅力を時間跳躍というテーマが備えているということであるが、これは言い換えるなら、いかに多くの人たちが「もし人生をやり直せるなら」という願望をいだいているかということの裏返しでもある。

 もし、過去のある時点に戻って、別の選択肢を選ぶことができたら――とくにその選択の結果があきらかに間違いだったことを知っている今の私たちにとって、その間違いを正せる可能性を秘める時間跳躍は大きな魅力だ。だがそこには、はたしてそのときの自分に、そもそも選択権が与えられていたのかどうかという視点が抜けている。過去の自分がとった選択は、まがりなりにもその選択が自分にとって正しいものだと信じたからこそのものであって、仮に本当に時間跳躍によって過去の自分に会うことができたとしても、その選択を覆すよう説得できるかどうかはまた別の問題である。そしてそれ以前に、私たちの人生において、何かをじっくり選択するだけの時間的余裕が常にあるわけでもないことを、私たちは知っている。

 そんなふうに考えたときに、私たちの人生にはどれだけ自身の裁量が影響をおよぼす余地があるのだろうか、という疑問にとらわれる。今回紹介する本書『解錠師』は、時間跳躍とはまったく関係のない作品だ。だが、本書のなかでマイクという名の少年がたどった人生をとらえたときに、彼にはたしてどのような選択肢があったのかということに、思いをめぐらせずにはいられなくなる。

 ついにそれを解き放ったとき……
 ついにその錠のあけ方を知ったとき……
 どんな気分だったか、想像できるかい?

 物語の語り手である青年マイクは現在、刑務所に服役中の身の上として登場する。語り手、というふうに書きはしたが、彼は幼いころのある出来事のせいで、言葉を話すことができなくなっている。そしてそれは、肉体的な損傷ではなく、おもに精神的な要因によるものであり、彼が言葉を取り戻す可能性があることを示唆するものでもある。本書では獄中のマイクが紙の上で、自身の過去を書き綴っていくという形式で物語が進んでいくことになるのだが、まず特記すべきなのは、この物語の冒頭における、読者への謎の提示の巧みさだ。

 刑務所に服役中であるということは、彼が過去のある時点でなんらかの罪を犯したことを意味する。同時に、彼が何年も言葉を話すことができずにいるという事実と、そうなった直接的な原因となる、ある事件のことがほのめかされる。語りたいけど、語れない――その出来事が、彼にとって相当「手ごわい」ものとして鎮座しているという事実が、そこから見て取れるのだが、それ以上に本書の冒頭には、それ以降に語られる物語の結末と要因が、ふたつながら大きな謎として明示されているという状況がある。

 マイクはどんな罪によって刑務所で服役するはめになっているのか、そして彼がそうなるに到った、そもそものはじまりはどこで、そこで彼に何が起こったのか。このふたつの謎が物語の軸となって進んでいくことになる。それゆえに物語のひとつの軸は、彼が凄腕の解錠師――プロの金庫破りとして犯罪者たちに手を貸していた頃の話がメインとなっており、もうひとつの軸は、彼の身に起こったある出来事の直後、伯父の家に引き取られた子どもだった頃の話がメインとなっている。

 本書のタイトルは『解錠師』であり、マイクにはその才能があった。鍵や解除の番号といったものが手元になくても、あざやかな手口でどんな錠も開けてしまう技術――それは、万が一にその持ち主が鍵をなくしたり、あるいは解除の番号を忘れてしまったときには役に立つ能力ではあるが、同時に大きな脅威でもある。それはそうだろう。解錠師という存在は、当人以外には開けられないはずのものを開けてしまう力の持ち主であることを宣言するようなものであるからだ。私のなかにも、プロの解錠師という職業にはどこか犯罪めいたイメージがある。だが、シリンダー錠やダイヤル錠といった、何かを閉じておくためのものに対して、いっさいの物理的暴力を行使することなく開けてしまうという行為には、どこか繊細で高貴な雰囲気が漂うのも事実である。

 マイクにとっての解錠という行為には、彼にしか理解することができない特別な意味をもつものであった。そしてその根底には、彼が八歳のときに遭遇した例の出来事が大きくかかわっている。だが、彼には言葉を発するという行為が封じられており、そうした細かい心の機微を他人に説明できないし、また本人にもその気がない。唯一、そのすべてを語りうる可能性を秘めているのが、アメイアという恋人の存在であるが、解錠という特殊な技能の開花は、それが他人の知るところとなったとたんに、個人的な意味から一般的な意味、それも、きわめて犯罪的な意味合いへと捕らえられてしまう。

 まちがった相手に対して自分が有能だといったん証明してしまったら、二度と自由にはなれないということを、ぼくはわかっていなかった。

 けっして物言わぬ錠の声に耳を澄まし、ほんのわずかな違和感をとらえて正しい解錠方法を導き出していく解錠師としてのスキルは、同じく物言わぬマイクにとっては、言葉の代わりとなるものであり、また唯一のコミュニケーションの方法だったと言うことができる。そしてそんなふうに彼のスキルを理解したときに、彼を包みこむ孤独の深さもまた見えてくることになる。まるで、深い水の底に沈められた金庫のように、誰の手にも届かないところにたたずんでいるマイク――本書は、そんな彼を真の意味で解放するための物語であると言えるし、そのための長い道のりを描いた物語でもある。言葉という、人間にとってはあたり前の手段をもたない彼にとって、その道のりがいかに多くの困難に満ちているのかは、想像に難くはないはずだ。

 そして、だからこそ私はこう思わずにはいられないのだ。彼のそれまでの人生において、いったいどれだけの選択の余地があったというのだろうか、と。

 鍵をかけるという行為は、そのなかに誰にもとられたくない大切なものを入れて守りたい、という願いから生まれたものだ。だが、それは同時に、内と外との境界線を強固にし、その断絶を大きなものにもしてしまう。沈黙という檻のなかに閉じ込められたマイク――「奇跡の少年」「金の卵」「若きゴースト」など、さまざまな呼び名を与えられた彼が、他ならぬマイク自身になる日がいつかやってくることを願わずにはいられない。(2013.12.09)

ホームへ