【講談社】
『共生虫』

村上龍著 



 世の中の真実が、なぜこんなにも見えにくくなってしまったのだろうか、とふと思うことがある。いや、それ以前に、この世に真実などというものが、本当に存在するのだろうか。

 いわゆる第二次ベビーブーム時代に生まれた私が小さい頃は、とにかく学校でいい成績をおさめること――良い大学に入り、良い会社に就職することが教育のすべてのように考えられていたが、今はなにかと言うと、成績一辺倒よりも個性を重視するような教育へと比重が移りつつあるという。このような価値観の変換をまのあたりにしたとき、では私がそれまで信じてきた教育は嘘だったのか、という憤りを感じないわけにはいかないのだが、しかし今の個性重視の教育にしても、けっきょく大学受験や就職の段階になると、「とりあえず大学(会社)に入れ。悩むのはそのあとでいい」ということを言い出すようになる、という話を聞く。

 常に「現実の向こう側」にあるものを見据え、私たちの知る日常とはかけ離れた、しかし確実に私たちの日常の中に存在する、もうひとつの世界を書きつづけてきた村上龍の仕事は、私たちが普通だと信じてきた価値観に、何らかの違和感を抱かせることにも通じる。「世界の向こう側」にあるものを垣間見せること――それがいかに凄惨で血なまぐさく、目を背けたくなるような代物であったとしても、それまでの日常が非常に曖昧な、霞のように実体のないものに過ぎないという事実を知ってしまった以上、もう目をそむけることはできない。私たちは認めざるを得ないのだ、「世界の向こう側」もまた、まぎれもない現実の一部であるということを。

 本書『共生虫』に登場するウエハラと名乗る男は、家の近くにあるアパートで「引きこもり」をはじめてから八年になろうとする青年である。誰とも口をきかず、外に出歩くこともなく、一日じゅうテレビを観たりゲームをしたりするという、世間から完全に隔離してしまった世界に生きるウエハラは、つい最近知ったニュースキャスターのサカガミヨシコに、あることについて話をしたいと思い、そのためにノートパソコンを買ってもらい、インターネットで彼女のホームページにアクセスするようになる。ウエハラが聞いてもらいたいと思っているある秘密――それは、彼が小学生のとき、祖父が入院している病院の病室で出会い、自分の体内に入り込んでしまった奇妙な虫のことだった……。

 本書においてその中核を成しているのは、間違いなくウエハラという引きこもりの青年である。三人称であるとはいえ、本書の文章はあきらかにウエハラを語り手としており、彼を中心にして物語は進んでいく。そして本書を読みすすめていくうちに、読者はきっと、現実感覚を喪失していくような、不思議な違和感を味わうことになるだろう。というのも、本書のなかには、妙にこまかい情景描写がいたるところに挿入されており、それがまるで、自分の視界に入ってくる物体をかたっぱしから気にせずにはいられないウエハラの、不安定な精神を表しているかのように思えるからである。そして、あるときは公園の風景を、あるときはインターネットの検索エンジンによる結果を、何ページにもわたって書き連ねていく手法は、「すれ違う人間にいちいち反応し」「動悸が速くなったり、顔が赤くなったり、話しかけられたらどうしようと恐くなったり」していたウエハラの心情表現であると同時に、虚構と現実の境目を次第に曖昧なものにしていくためのものでもある。

 そういう意味で、インターネットという材料に著者が目を向けたのは、むしろ自然な流れであると言えるだろう。自分の姿を晒すことも、相手の顔を見ることもなく、一種のコミュニケーションを成立させてしまうインターネットは、まさに現実の物理世界とはまったく異なった、もうひとつの世界そのものを体現しているのだ。本書のなかで、ウエハラはサカガミヨシコに、自分の体内にいるはずの虫のことをメールに書いて送るが、返事のメールはなぜか「インターバイオ」と名乗るグループからのもので、ウエハラの書いた虫についての情報を――「共生虫」という名の、暴力願望や殺人願望を引き起こす特殊な精神異常発現物質を分泌する虫であるという情報が寄せられることからもわかるように、インターネットという世界のなかでは、「共生虫」に関する情報はもちろんのこと、サカガミヨシコという存在自体がすでに怪しいのだ。その特殊な環境については、伊藤たかみの『リセット・ボタン』においても書かれていたことであるが、しかし本書において重要なのは、そこに書かれてあることの真偽などではない。それまで現実の世界から隔絶された生活を続けてきたウエハラが、同じく現実から遊離した世界であるインターネット上の情報に触れることによって、逆に現実という名の嘘と、その裏にある、人間の本性――かつての日本が経てきた戦争と殺戮という真実を見出してしまった、ということなのである。

 現実という名の嘘――私たちは「現実」という言葉を使いながら、じつは現実を見てはいない。あるいは現実に目を向けることを巧みに避けていると言うこともできる。というのも、もしその現実を――殺戮と破壊こそが人間の本性であるという現実を認めてしまったら、私たちはおそらく、恐怖で一歩も外に出ることができなくなり、まともな生活を送ることができなくなってしまうからだ。だからこそ私たちは、自分の周囲にいる人間が殺人鬼などではなく、ごく普通のいい人である、という希望を無作為に信じようとする。そんな現実の嘘を拒否し、自分自身に嘘をつきつづけることをやめてしまった者――著者は「引きこもり」という現象を、そんなふうにとらえようとする。

 不要な接触を断ったから気づくことができたのだとウエハラは思った。他のほとんどの人間は不必要な人間関係の中で本当に自分が必要としているものは何なのかということがわからなくなっている。引きこもりが正しいのかどうかはわからないが、その他にはあまり方法がないのだ。

 現実と虚構のはざまを行き来し、実在と想像の境目がますます曖昧になっていく読者を尻目に、ウエハラは引きこもりから抜け出し、防空壕へと目指す。そこには、生と死に関して限りなく希薄になってしまっている現実ではなく、人間があまりにも簡単に、あっけなく死んでしまうという、真のリアルが存在するのだ。はたして私たちは、ウエハラが見出した「世界中の人々と生き物と建物とその他の付属品とを繋ぐ流れ」を見ることができるだろうか。(2000.08.28)
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