【講談社】
『狂骨の夢』

京極夏彦著 

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 もし「妖怪はこの世に存在するか」と訊かれたなら、私は間違いなく「そんなものはいない」と答えるし、「死後の世界があるか」と訊かれたなら、私は間違いなく「そんなものはない」と答えるだろう。人間はあくまで人間という生物であり、死んでしまえばそこでその人のすべては終わりだ。それはきわめて論理的で、かつシンプルな結論であることは間違いない。だが、だからといってそれが物事のあらゆる真実を指し示しているわけではない、ということも私はよく知っている。たとえば、死後の世界や霊や魂の存在、あるいは輪廻転生といった概念は、私が日本人であるということと同じくらい、日本という国の長年にわたる伝統や文化に深く根ざしてきたものであり、そうした呪縛は個人の意思くらいでは、なかなかどうにかなるものではない。逆に言えば、私たちは多かれ少なかれ、そうした環境に影響されて成長してきた、ということでもある。

 いつもであればけっしてしないような悪いこと、不正な行為をつい実行してしまうことを、私たちはよく「魔が差す」と言う。もちろん、それらの行為のすべて、そしてその結果生じた事柄については行なった当人に責任があるのであって、けっして人をそそのかす「魔」なる存在が当人の心を惑わしたわけではない。人が行動を起こすのには、かならず何らかの――それは必ずしも、いわゆる「論理的」なものであるとはかぎらないが――発端なり原因なりがあるはずなのだ。だが、そもそも人間は自身のあらゆる言動について、論理的な説明をすることができるものだろうか。玄関を出るときにどちらの足を先に出すか、などという些細なことにまでいちいち理屈をつけていっては、まともな社会生活などできなくなってしまう。「魔が差す」という言葉は、生じた問題をてっとり早く解決し、社会秩序を回復させるのに、じつに都合の良い装置なのだ。そしてそうした装置は、日本に古くから伝えられている「妖怪」についてもあてはめることができる。

 よくわからないもの、正体不明のもの、説明のつけられないこと――これらは人間にとって恐怖の対象である。昔の人々が、科学技術が未熟であるがゆえに説明のつけられない自然現象にさまざまな「妖怪」をあてはめたように、「魔が差す」という言葉も、人間の心の奥底に蠢いている闇を直視し、そのことで当人が大きな傷を負うことがないようにするための、いわば救済処置だとするなら、それは私にとっては非常に納得のいくものがあるのだ。本書『狂骨の夢』は、古本屋にして神主、そして憑き物落としを生業とする「京極堂」こと中禅寺秋彦が怪奇な事件を解決する、という京極堂シリーズの第三弾であり、かかわることになる事件も、前二作よりはるかに輪をかけて複雑怪奇の様相を呈しているが、今回の事件にかんして彼があてはめた妖怪が「狂骨」――激しい怨みをいだく井戸の中の白骨であり、その元となっているのが人間の骨、というより人間そのものであったというのは、非常に象徴的である。そしてそれゆえに、事件そのものの混沌とした展開とは裏腹に、京極堂の「憑き物落とし」という儀式が何を意味するものであるのか、という点においては、これまでのなかでもっとも明瞭な形をとっていると言うことができる。

 どうもおかしい。表面上は何の不思議もなく、事件は解決しているに等しいのに、それでいて何ひとつきちんと説明ができない。細かい部分には驚く程多くの矛盾と不合理が鏤められている。

 上述したように、今回の一連の事件の底にあるものはとんでもなく複雑で、しかもいくつもの、いっけんすると何の関連性もなさそうな事件が、しかし何らかの形でつながっているという、まるでこんがらがって奇怪な形を成した糸の束のような全体像を結んでいる。そして引用した部分にも書いてあるように、事件そのものは表面上、解決している。事件というのは、怪奇小説家である宇多川崇殺害事件であり、殺害した犯人はその妻の朱美で、彼女はすでに逮捕され、自分の犯行だと自供もしている。だが、その殺害された宇多川崇は、神経質すぎる作家の関口巽に妻のことで相談をもちかけていた。それは朱美の先の夫である佐田申義が兵役忌避で逃走したあげく、首無し死体で発見されたという八年前の事件の真相を究明してほしいというもので、宇多川崇はその事件が解決すれば、朱美の身に起こっている数々の怪奇現象も治まるものと考えていた。

 はたして、朱美が思い出した過去――それも当人にはまったく身の覚えのない、他人の記憶――というのは、彼女の前世の記憶なのか。その彼女のもとを何度も訪れ、その度に彼女に首を切られて殺害され、しかもそれでもなお復活してはやってくるという佐田申義の死霊は何なのか。刑事の木場修太郎がかかわることになった「金色髑髏事件」や「逗子湾生首事件」、そしてその捜査の延長上に浮上してきたかつての「双子山集団自殺事件」は、朱美の事件とどのようなかかわりがあるのか。そして、以前朱美が相談をもちかけた牧師や元精神科医が見る髑髏の夢は? 何よりも、なぜ宇多川崇は殺されなければならなかったのか? 木場自身も漏らしているように、物語が展開していけばいくほど、その筋道がはっきりしてくるどころか、ますます泥沼化していくかのような本書であり、推理どころか感想すら出てこなくなるその混沌を、京極堂がいかに秩序づけていくか、という点こそが一番の読みどころであるのは言うまでもないが、こと本書を読み終えて深く印象づけられる要素があるとすれば、それは人が何を信じるか、何に救いを求めるかという人間心理の面に、物語の焦点を置いたという点であろう。そしてそれは、必然的に本書のなかで展開される一連の事件を読み解いていく、重要な鍵になるものでもある。

 京極堂がおこなう「憑き物落とし」の儀式とは、人間を猟奇的犯罪へと走らせてしまう心の闇に強くとらわれてしまった者を、正気の世界へと連れ戻すための作業である。そこには、人間の常識や法律といった論理だけでは推し量ることさえ難しいもの――まさに「魔が差す」としか言いようのない何かがある。本シリーズで起こる事件が、いわゆる「妖怪」を生み出さずにはいられない人間心理と同じ過程で生じた怪奇事件に焦点をあてている以上、そこには常に複雑でとらえがたい人間心理がはたらいており、だから本書において人間心理の面が強調されてくるのは、そもそも必然ではあるのだ。ただ、前二作で起きた事件が、いっけんするといかにも探偵の謎解きを必要とするミステリー的な要素をもっており、不本意なことにそのトリックが、下手をすると禁じ手すれすれのきわどいものであった、という印象ばかりが強くなってしまったのに対して、本書の場合、メインともいうべき事件は何の変哲もないものとしてすでに解決している、という要素がまずあり、それゆえにミステリーにおけるトリックの点よりも、むしろその犯罪がそもそも起こってしまった動機や原因という点に読者の興味を誘導することができている。

 フロイトに代表される西洋の心理学の知識に関する言及があることも興味深いところだ。西洋の科学技術の傾向として、唯一絶対の法則を見出そうとする、というのがあるが、それは逆にいえば、それ以外の法則をいっさい認めない、ということでもある。さすがはキリスト教圏の論理だというところだが、こうした姿勢は、京極堂の「憑き物落とし」に代表される「妖怪」の原理とは対極に位置するものだ。原理原則はけっして絶対のものではなく、むしろ相対的なものである、という考え――それはいわゆる東洋的な思考傾向であるが、このふたつの要素を並べることで、今回の事件もふくめたさまざまな怪奇現象が、じつは方向性の異なる科学技術の枠のなかにある、ということを、前の二作よりもうまく納得できるような構造になっている。そういう意味で、ひとつの物語としての完成度は高いと言っていい。

 京極堂が自分でも言っているように、彼は探偵でも警察でもなく、「憑き物落とし」の拝み屋である。その拝み屋としての本領――ただ事件の謎を解き明かすだけの、真実を追究していくタイプの探偵ではない、いかにも日本的な論理に即して事件を解決し、人の心を闇から解き放つという本領が、本書ではもっとも発揮されていることだけは、断言してもいいだろう。(2005.12.08)

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