【角川書店】
『黒い家』

貴志祐介著 
第4回日本ホラー小説大賞受賞作 

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 相手が心の中でどんなことを考えているのか――コミュニケーションの方法としては不完全な道具である言葉をもってしか自分の気持ちを表現できない以上、他人の心の内側は、本人以外の人間にとっては闇の部分であり、そのすべてを理解することなど、しょせん不可能であると言わなければなるまい。だが、相手がどんな極悪人であっても、自分と同じ人間なのだと思えばこそ、人はあえてその闇の部分を含めた他人のすべてを信頼することができるし、その人の置かれた境遇を自分の身におこったこととして想像する力を駆使することで、理解できないまでも、思いやることはできるはずである。
 だが、悲しいことに――そして恐ろしいことに、今の世の中には、人間の形をした、しかし人間とはまったく違った思考能力を持ち合わせている人間というものが、確かに存在する。およそ人間らしい心をもっていればけっしてできるはずのない凶悪犯罪や大量殺人を犯した者たち――いわば人間のミュータントとも言うべき人間の存在を、私たちはいったいどのように解釈するべきなのだろうか。

 すべてのはじまりは、昭和生命という保険会社の京都支社にかかってきた、一本の電話だった。

 本書『黒い家』に登場する若槻慎二は、入社六年目に本社からここ京都支社に異動となった役付職員で、おもに既契約のアフターサービスをおこなう保全業務を担当している。「自殺した場合は保険金は出るのか」というその電話の、よくある問い合わせのひとつに応対した慎二は、その声の調子に、当人が自殺を考えているのではないかと察し、とっさに自分の過去を打ち明け、自殺を思いとどまるように説得する。今もときどに夢にみる慎二の過去――それは、当時小学四年生だった彼が、兄の良一がいじめに遭っている場面に居合わせながら、兄を見捨てるような行動をとってしまったこと、そしてそれが原因で兄を自殺に追い込んでしまったのではないか、という深い罪悪感だった。

 ところがそれから数日後、菰田重徳という男から、慎二自身を指名した苦情の電話がかかってくる。昭和生命の保険に入っている、という以外に何の面識のない相手からの指名に当惑するものの、とにかく彼の家を訪れた慎二がその中で見たものは、重徳の息子、和也の首吊り死体であった……。

 露骨に不快感を刺激する雰囲気と、異様な臭気を放つ黒い家、そこに住む菰田重徳の、鬱々とした不気味な態度、そして目の前にさらされた子供の首吊り死体――生命保険という、人の死や怪我、病気といった負の要素と金の流れが直結する商売の裏事情に関するリアルな説明とあいまって、本書全体を包み込むような黒々とした空気は、読み進めていくうちに徐々にその濃度をあげていく。菰田重徳が自殺に見せかけて息子を殺したのではないか、という疑問、遅々として進まない警察の捜査、その間にも、毎日のように窓口にあらわれて、保険金はおりないのか、と催促に来る菰田重徳の、ますますひどくなっていく狂気、そして彼の過去と今の妻、幸子との関係――最初はあくまで静かに、しかし少しずつ少しずつ加速度をつけて雰囲気を盛り上げていくやり方は、ホラーの王道ともいえる手段であるが、その盛り上げ方は非常に念入りであり、それゆえに慎二の周囲におこる出来事の異様さがますます際立つようにはたらいている。主人公に、あくまでぎりぎりまで日常生活を逸脱させないようにしている、という点も一役買っていると言えよう。

「サイコパス」という言葉をご存知だろうか。心理学用語で言うところの背徳症候群や反社会性人格障害といった、精神的情緒欠如者とほぼ同義語として扱われるこの言葉は、要するに自分の欲望を満たすためなら人を殺すこともためらわない、人間らしい心――他人に対する思いやりとか優しさとかいった感情が生まれつき欠落している人間のことを指している。自分の子供にさえ愛情を抱くことのない情性欠如者が、生命保険という、人生のリスクを軽減するためにあみ出された相互扶助システムと結びついたとき、自分にとって身近な人間の存在は、特別な意味を持つ存在へと変貌する。自分のために大金をもたらしてくれる、貴重な存在――最後には殺して食料とするために愛情をそそいで育てる家畜という存在へと。

 もし、そんな彼等が、自分の欲望を邪魔しようとしている人間の存在を知った場合、いったいどういうことになるのか、想像するのはそれほど難しいことではない。

――(中略)――彼らは、いわばミュータントなんですよ。人間を人間たらしめている一番の要素が、すっぽりと抜け落ちていますから。SF小説に出てくるミュータントのような超能力こそありませんが、それ以上に危険な存在かもしれませんよ。罰せられないとさえ判断すれば、彼らは平然と人を殺すでしょう……」

 メディアでも一時期話題となった、和歌山県のカレー毒物混入事件を例に挙げるまでもなく、すでに損害保険の請求金額のうち、半分は詐欺であると言われている。そして日本でも深刻な問題となりつつあるモラルハザード――もし、増加する凶悪犯罪の原因がサイコパスにあり、今の世の中そのものが彼らを育てる温床となっているのだとするなら、と考えると、戦慄を感じざるを得ない。しかし、それにも増して恐ろしいのは……。

 この先は、ここでは触れないでおく。サイコパスの跳梁よりも恐ろしい事実とは何なのか、本書を読んでぜひ知ってもらいたい。(1999.11.14)

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