【講談社】
『クビシメロマンチスト』

西尾維新著 



 たとえば、「死ぬのなんか怖くない」とうそぶく人間がいたとする。
 もし、あなたが「死」という事実に正当な想像力をもっている人間であれば、そうした発言に許しがたいものを感じてしかるべきである。なぜならその人は、現実としてすべてを無に帰す「死」の業火を目の前にしている人間に対して、自身はまったく安全な場所にいながら、「その火は熱くないから飛び込んでみなよ」と無責任に宣言しているのと同等だからだ。

 自分がされて痛いと思うことは、相手がされても痛いだろう、自分にとって嫌なことは、相手にとっても嫌なことだろう――想像力というのは、こんなふうに他人の心の内や感情を思いやるための、人間に与えられた最大の恩恵であることは間違いないが、それは逆に言えば、私たちの極めて個人的な判断基準をもとにした想像をもってしか、他人のことを理解できない、ということでもある。それが想像力の限界であり、同時に人間としての限界でもある。

 世界はけっして優しい想像力をもつ人間ばかりで構成されているわけではない。他人の痛みなど露ほども感じない人間もいれば、他人の命はおろか、自分の命にだってたいした価値を置いていない人間もいる。けっして大多数ではないだろうし、誰もが生まれながらにそうだったわけではないだろう。だが、私たちはたしかにそんな人間が、この世にいることを知っている。そして、そんな人間臭い思いやりや感情にまったく価値を置いていない、置くことのできない人たちにとって、他人の気持ちを想像することなどまったく理解できないに違いないし、ましてやその感情が、人間としての行動を大きく左右し、ときには人としての道を踏み外させることさえある、という事実など、それこそ不可解極まりないことに違いない。

 大多数の人たちが当然だと感じる事柄を、どうしても当然のこととして受け止めることができない者がいだく、底なしの劣等感――本書『クビシメロマンチスト』の語り手である「ぼく」は、物語のなかでは正式な名前すら与えられていない「欠陥品」であることを、誰よりも強く意識している人物である。しかも、ただ単に劣等感をいだいているわけではない。かつてはER3システムと呼ばれる、世界中の天才集団ばかりが集まる研究施設に迎え入れられるほどの頭脳をもち、世の中のさまざまな疑問に明確な解答を与えてやるだけの才能をもっていたにもかかわらず、そのことに対してどうしようもないほどの無力感に囚われてしまった人物だ。そんな無気力で流されやすい大学生である「ぼく」が、ほとんど強引といっていい感じで、何人かのクラスメイトとかかわりをもたざるをえない状況に陥ってしまう。葵井巫女子、江本智恵、宇佐美秋春、貴宮むいみ――友達どおしで開かれた、江本智恵の誕生日パーティーに招待された「ぼく」が、ほんのちょっとだけその友達かげんを「いいな」と感じた、その楽しげな雰囲気は、しかしその翌日に知らされた、江本智恵の死によって一変する。彼女は、何者かに首を絞められて殺されてしまったのだ……。

 今回の殺人事件の舞台となるのは、前作『クビキリサイクル』のような絶海の孤島ではないし、登場する人物も天才や武装メイドといった、いかにもありえそうもないキャラクターたちではない。舞台は京都の町で、登場人物はごく普通の大学生で、クラスメイトたちだ。ちゃんと警察も動く。だが、問題なのは背景世界が現実的かそうでないか、といったようなことではなく、あくまで虚構である「ミステリー」世界を成立させるための、これだけははずせない、というお約束的な部分をも見事にはずしてしまっている点であろう。さらに言うなら、そうした「お約束」をことごとくはずすことによって、はじめてミステリーとして成立できるような、そんなひねくれまくった虚構世界をつくりあげてしまった、という点である。

 しかもタチの悪いことに、主人公である「ぼく」は、そんな「つくりものめいた世界」に生きていることを、どこかメタ的に意識しているふしさえある。「ぼく」は人間として大切なものが決定的に欠けている「欠陥品」という意識をもったキャラクターとして描かれているが、同時にミステリーの主人公、つまり事件を解決に導くために存在する超越者「探偵」という役割を与えられていながら、しかし決定的に「探偵」になれなかった、という意味で、二重の「欠陥品」であることを意識しているのである。

 決定的に状況を変えるなんてことは朱色の人類最強や青いサヴァン、ああいった、世界そのものから突出した、本当に選ばれた人間達の役目であって、決してぼくの任務じゃない。
 どこにでもいる敗北者。
 狂言回しの仕事じゃないのだ。

 本書のなかでおこった、殺人事件――だが、それを解決するはずの「探偵」役となる人物が、決定的に「探偵」としての資質を放棄してしまっている、という点では、まさに稀有ともいうべき作品だろう。なにしろ「ぼく」は探偵であることにはきわめて消極的であるのだから、「普通」の探偵ならけっしてやらないような反則もするし、今回の事件とはまったく関係のない殺人鬼が登場し、まるで旧来の友であるかのように「ぼく」の相手をする、といった状況が生まれたりする。だが、そんな奇妙奇天烈なミステリー世界であるにもかかわらず、その謎や謎解きがけっして破綻することなく成立しているのは、あくまで「ぼく」や、殺人鬼である零崎人識が背負っている個人の世界において、けっして矛盾するようなことをしていないからに他ならない。なぜならそれこそが、彼らの生きる世界において唯一といっていい、アイデンティティの拠り所であるからだ。

 欠陥品は、他人の痛みが決定的にわからないが、それゆえにひとりよがりな感情が人を殺す理由となりえることを憎悪する。
 欠陥品には、友達と呼べる者がほとんどいないが、友達と認めた者を、何があってもけっして裏切るようなことはしない。
 ベスパはベスパであって、けっして「ラッタッタ」ではない。

 現実の人間は、小説の登場人物のように性格がはっきりとしているわけではないし、自身でも説明のつかないような言動をとったりもする。だが、いかにも小説の登場人物みたいな、変化することのない性格を、あくまで人間としての欠陥であるとしたうえで、そうした設定をも本書の謎を構成する部品の一部として組み込んでしまうところ、この著者はどこまで確信犯なのだろうか、と舌を巻く思いである。

 自分は「探偵」にはなりえない「欠陥品」であることを誰よりも意識しているにもかかわらず、そんな「ぼく」の意思とは無関係に、それでも殺人事件は起こり、ミステリーは世界を紡ぎつづけていく。そんななまぬるい虚構世界のなかで、かろうじて保つべきささやかな自分を守りつつ、戯言師は今日も滑稽な狂言回しを演じつづけている。(2004.02.24)

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