【講談社】
『クビキリサイクル』

西尾維新著 
第23回メフィスト賞受賞作 



「天才」という言葉は、はたして差別用語なのだろうか?

 天から与えられた才能、それが「天才」だ。努力や根性といった、いかにも人間臭い行為の積み重ねでは到底とどかない領域に、やすやすと到達してしまっている人間、神に選ばれた人間――そこには当然、天才と呼ばれる才能ある人たちへの尊敬や憧憬の念があるのはたしかだろうが、それ以上に、自分たちを「凡人」と定義づけすることによって、その対極にいる人間を「自分たちとは異なる特別な生き物」として区別したいという心理がはたらいているのもたしかだろう。なぜなら、そうしなければ不安だから――ふつうの人たちの努力を、いともあっさりと跳び越えてしまうような者が、自分たちと同じ人間であると認めるのは、まるで自分たちの存在そのものが無きに等しいと認めるかのようで、怖くて仕方がないのだ。じっさい、自分で自分のことを「天才」などと言っている人に私は会ったことがないし、かりにそんな人間がいたとして、そいつはおそらくろくな奴ではないだろう。そして、世間から「天才」と呼ばれている人たちは、たぶん自分が「天才」であると考えたことすらないに違いない。

 そんなふうに考えてみると、「天才」という言葉は多分に抽象的なものであり、ふつうの人よりある方向において傑出した才をもつ有象無象たちを、いわば異端としてひとくくりにし、集団から追い出してしまうための装置である、という言い方もできる。「天才」は物理法則でも数式でもない。明確な定義などどこにも存在しない。移ろいやすい人間の社会的主観によって、一方的に貼り付けられるもの、という意味では、むしろ「犯罪者」などと同義であるとさえ言えるだろう。その集団から外に出てしまえば、存在することすらできない虚構なのだ。

 あるいは、こんなふうに言えるかもしれない。そんな言葉遊びは、戯言にすぎない、と。

 本書『クビキリサイクル』では「天才」と呼ばれる人たちが登場する。いや、登場する人物が「天才」ばかりである、と言ったほうがいいかもしれない。本書の舞台となる「鴉の濡れ羽島」は、島の所有者である赤神イリアの趣味――退屈しのぎのために、各地からさまざまな分野における「天才」が招かれ、思い思いに過ごしてもらうという、最高に贅沢なサロンとして機能している。あらゆるスタイルの絵を描く天才画家、あらゆる学問を極めきった天才学者、相手の心の中はおろか、過去や未来でさえ見通してしまう天才占い師、あらゆる味をあじわいつくし、どんな料理でも誰よりもうまく作れる天才料理人……。情報工学と機械工学のスペシャリストである玖渚友もまた、赤神イリアに「天才」として認められ、彼女の付添い人である「ぼく」とともにその島に招かれることになったのだが、そんな「天才」だらけの閉鎖空間で、殺人事件が発生する。それも、密室と首なし死体という、いかにも推理小説が好んで使いそうな要素を添えて……。

 外部との接触が絶たれた絶海の孤島、次々と殺されていく島の滞在者――物語の部分だけをとらえると、いかにも古典ミステリーではありがちな展開の本書であるが、過去のこうしたミステリーが、それでもなおリアリティーでもって現実世界との接点を保とうとしていたのに対し、本書の場合、そうしたリアリティーをはじめから放棄しているような雰囲気がある。そういう意味では、伊坂幸太郎の『オーデュボンの祈り』の舞台となる荻島とよく似ているが、本書に漂う虚構性は、「天才」という名の異端のみがひとつの場所に集まったことで生じるものである。そして、私たち一般人から見てどこか異端である、という点では、たとえば世界でも屈指の財閥の孫娘でありながら、その本家から追放された赤神イリアにしろ、彼女に仕える三つ子のメイドにしろ同じことだと言える。

 そしてきわめつけが、自分のことを「僕様ちゃん」と呼び、まるで子どものように何もかもがあけっぴろげな天然少女でありながら、究極絶無な技術力をもつという、きわめてアンバランスな感のある玖渚友と、誰かと対立するのが嫌で、それゆえに自分というものに無頓着に、流されるままに流れていくような生き方を好む、ちょっと空虚なキャラクターである「いーちゃん」こと「ぼく」のコンビである。普通の現実世界ではちょっとありえそうにないこれらの登場人物たちは、いっけんするとライトノベルでよく見かける「キャラクター」――ある特異な特徴をもち、けっして性格的に破綻したり、矛盾したりすることのない、言ってみれば物語のなかでのみ生き生きと動きまわり、思考することのできる人物であるかのように思える。そして、それはある意味正しい。ただし、彼女たちは物語のなかではなく、むしろ「ミステリー」のなかでのみ生きるキャラクターだということを考えたとき、そうした設定そのものが、本書に仕掛けられた謎を最大限に生かすための装置のひとつとして機能していることに、おそらく読者は気がつくはずである。

 奇しくも「ぼく」が謎解きのさいに語るように、たとえば警察の捜査力というリアリティーが介在すれば、謎は謎として機能しなくなる。本書の謎は、そういうたぐいの謎なのだ。だが、その選択肢は島の主人である赤神イリアの独断によって拒否される。たとえば、玖渚友は、衛星通信を利用した携帯電話をもっている。だが、彼女はその電話をもちいて助けを呼ぶという選択肢をとることがない。理由は簡単、赤神イリアにしろ玖渚友にしろ、本書に登場するキャラクターたちは、誰一人として「常識人」ではないからだ。「天才」という名の異端ばかりが集まった閉鎖空間でおこった、異常な殺人事件――だが、まわりにいる者たちすべてがある意味常軌を逸した人間であるとき、異常な殺人事件もまた、異常ではなくなってしまう。それは同時に、ふつうなら明らかにおかしいと思うようなことであっても、たんに「天才だから」という理由で納得させてしまうような雰囲気が、物語の冒頭からすでに完成している、ということでもあるのだ。

 しかし、だからといって本書の謎とその謎解きがけっしてレベルの低いものである、というわけではない。すべてにおいて中途半端な「ぼく」の謎解きから、本書の真の名探偵役である「人類最強の請負人」こと哀川潤の「完膚なきまでの」真相解明にいたるまでの、何段にもわたる意外な真相の数々は、本書全体に漂う異常さをさらに覆してしまうほどのものであり、ミステリーとしてもきわめて高い水準を保っていると断言してもいい。はっきり言おう。本書に関して、その表紙イラストだけで判断するのは大きな間違いであると。

 なにもかも中途半端なままに生きる「ぼく」、なにもかもがあけっぴろげな玖渚友、なにもかもはっきりさせずにはいられない哀川潤、そしてどこまでが本当でどこまでか嘘なのか、その底が見えてこない島の住人たち――はたして彼らの目に、世界はどのように映っているのか、本書を読んだ読者は、きっとその答えを求めてもう少しこのシリーズに付き合いたくなるに違いない。(2004.01.15)

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