【文藝春秋】
『空中庭園』

角田光代著 



 生涯をともにしてくれる良き伴侶を見つけて結婚し、子どもをつくって父親や母親となり、平凡ではあるかもしれないがささやかな幸せを築いていく――子どもはおろか、結婚すらとうぶんのあいだは縁のなさそうな三十代の独身男性である私にとって、そうした円満家庭の姿は、夢のように遠い場所に輝いている憧れの対象であり、今のところそれより身近なものになってこないものであるが、仮に、私に妻や子どもができたとして、はたして「幸せな家庭」とはどのようなものなのか、ということを考えたとき、私の頭の中にあるのは、私も含めた家族全員が、そこをたしかな自身の居場所だと確信することのできる場所、というものである。だが、家族全員がたしかな居場所と思うことができる家庭の形が、具体的にどのようなものなのかと訊かれると、そこにはどうにも漠然としたイメージしかない、というのが正直なところである。

 家庭というと、たとえば両親や兄弟姉妹といった単位でくくられる家庭と、配偶者やその子どもたちといった単位でくくられる家庭の二種類があるわけだが、どちらの単位にしても、その単位に属する家族全員が、ずっと同じ屋根の下で生活をつづけることができるわけではない。いずれ両親のもとから離れて、自分のあらたな家庭を築かなければならない人もいるし、両親の家を引き継いで、そこにとどまっていなければならない人もいる。たとえ、同じ血のつながりがあって、その血族関係から逃れることはできないとしても、いずれ家やマンションといった場所で、ともに過ごしていく家族の単位は変化することを余儀なくされるはずである。

 人はこの世に生まれてきた以上、自分が生きていかなければならないこの世界にたしかな自身の居場所がほしい、と思うものである。自分の居場所というのは、極端にいえば自分という人間の存在意義とも言うべきものである。なぜ自分はこの世に生まれてきたのか、自分はこの世界で何をなすべきなのか――そういう意味で、私たちが誕生して最初に接することになる「家庭」という単位は、あるいは人々にとっての一時的な居場所にはなるかもしれないが、それはけっして永遠不滅のものであるとはかぎらないのではないか。私が本書『空中庭園』を読み終えたときにまず感じたのは、そんな強いメッセージ性だった。

 本書は表題作もふくめた六つの短編によって構成されている作品集であるが、それぞれの短編はまったく独立して成り立っているわけではなく、とある郊外のニュータウンに建てられた集合住宅に住む一家――京橋家の父親タカシ、母親絵里子、ふたりの子どもであるマナとコウの姉弟、そして弟の家庭教師として京橋家に通う北野三奈と、絵里子の母親で実家に住んでいる木ノ崎さと子の六人が、それぞれの短編で語り手となって、京橋家という家族の形を違った視点から描き出そうとしており、そういう意味では、一連の時間的な流れにそって語られていく連作短編集だと言うことができる。

 何ごともつつみかくさない、というのは――(中略)――パパとママの基本的な考えかたである。彼らによると、かくすというのは、恥ずかしいからかくす、悪いことだからかくす、みっともないことだからすかくす、つまり、負のものだからかくすわけで、でも、あたしたちの生活のなかに、恥ずかしいことも悪いこともみっともないこともあり得るはずがない、というのだ。

(『ラブリー・ホーム』より)

 築十七年ということで、それ相応にくたびれてきているが、それでも多くの緑と光に満ち溢れている巨大マンション、人々がたんに「ダンチ」と呼ぶ彼らの生活場所は、絵里子の言葉を借りれば「光かがやくあらたしい未来」を象徴していることになる。上述した京橋家の基本方針も、自分たちの家庭が「光かがやくあらたしい未来」でありつづけるためのものであり、つまりはそこで暮らしているかぎり、「子どもは無邪気、夫婦は円満、コミュニケーションはばっちし」で、何の心配もなくのんびり過ごすことができる、というものだ。それは、人々の居場所としては理想的な形であることに間違いないが、しかし本書を読み進めていくと、京橋家のめざすべき理想はすでに破綻をきたしていることが見えてくる。

 たとえば、マナは「何ごともつつみかくさない」方針のもとに、自分がこの町のあるラブホテルで「仕込まれた」ことを聞き出し、まるで今の家族のなか以外の自分の居場所を探し求めるかのように、男といっしょにそのラブホテルへと足を運んでいるし、タカシはそのいきあたりばったりの性格ゆえか、妻以外の女性と関係をもっていて、しかもその秘密を隠し通すことができると――あるいは、たとえ秘密がバレてもどうにかなるという、ひたすら問題を先送りしつづける甘ったれた考えで日々を過ごしている。そして絵里子は、そんな夫になかば愛想をつかしているにもかかわらず、自分たちの家族がめざすべき「光かがやくあらたしい未来」は今もなお健在だと信じ込もうとしており、しかもそのために、自分たちが結ばれた経緯について、マナやコウには嘘をつきつづけている。だがその嘘も、コウにはなんとはなしに嘘であると察しつつ、家族がいかにもな「家族」たらんとしている重圧をなんとかしのいで生きている。

 つまり、本書を構成する短編集の中心には、「何ごともつつみかくさない」という家族の「光りかがやく」理想像があり、しかしそれぞれの短編のなかで、家族の構成員がそれぞれに、けっして白日の下にさらすことのない隠し事=「闇」を抱えているという構造によって成り立っている。そして、家族の誰しもがそんな家族の理想像に重圧感や違和感をおぼえ、それゆえにそこがたしかな自身の居場所として機能しなくなりつつあることを知りつつも、それでもなおその理想の家族を演じつづけている。こうした、すでに崩壊した家族が、なお家族ごっこを続けることのグロテスクさを描いた作品としては、たとえば柳美里の『家族シネマ』や『フルハウス』といった初期の作品がまず思い浮かぶのだが、柳美里の作品が、家族の崩壊という部分をあからさまに強調し、家族の誰もが「もうどうにもならない」と心のどこかで感じていたのに対し、本書の京橋家の面々の場合、まだ自分の家族が壊滅的だと思っているわけではない。だが、タカシの愛人であるにもかかわらず、その息子のコウの家庭教師となり、またコウに頼まれてラブホテルにも行き、さらにそのことを木ノ崎さと子にも知られている、京橋家にとっては赤の他人にすぎない三奈にとっては、これだけの致命的な隠し事があるにもかかわらず、まるでそんな問題など存在しないかのように家族の誕生日パーティーをひらいてしまう京橋家は、まさに吐き気をもよおすほどに異常な家族のように見えてしまうのである。

 逃げてえ。心のなかで相変わらずそうつぶやいてみるのだけれど、次の瞬間、はじめて疑問を抱く。どこへ? その先がこの小さな家でなかったら、ぼくはどこへ逃げ帰りたいのだろう?

(『チョロQ』より)

 私たちにとって家族とは、どのようなものであるのか、家族の一員であることと、赤の他人であることの違いは、どこにあるのか。家族だからこうでなければならない、という決まりごとなど、本当は世の中の大多数の人たちがこうだと思い込んでいるだけのものでしかなく、また、家族という単位に抱く心情は、同じ家族の一員であってもそれぞれが異なった考えをもっていてしかるべきものでもある。どこかの家族に属していることと、自分という、まぎれもない個人であるということ――その狭間で揺れ動いていく人々の姿が、本書にはたしかに描かれている。(2005.08.17)

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