【河出書房新社】
『ノック人とツルの森』

アクセル・ブラウンズ著/浅井晶子訳 



 物事の価値観というのは、けっしてひととおりしかないわけではなく、人によって、時代によって、あるいはそのときそのときの状況によって複雑に変化していく相対的なものである。たとえば、ある人にとってはまったく価値のないゴミであっても、別の人にとってはこのうえなく大切な宝物であったりすることを、私たちは知っている。それは逆に言えば、同じ物事をとらえたときに、そこにどのような価値観を見出すことができるのか、その人にとってその事物が何を意味しているか、ということにつながっていくのだが、私たちがそんなふうに価値観の多様化を認識することができるのは、これまでの人生で多くの他人とつきあい、いろいろな経験を積んできたからこそのものである。

 自分の持つ価値観が、唯一絶対のものではない、ということ――それは、人が成長してより大きな世界と接するようになればおのずと理解されることでもあるが、もし人が、そうした多様な価値観に触れる機会がなければ、当然のことながら自身の価値観を別の価値観と比較することもできず、自分の置かれた状況、自身のもつ価値観について正当な評価をくだすこともできない。それはその人にとって、より大きな可能性、自分がより良く変わっていくという可能性を、みすみす潰してしまうことになりかねない。そもそも、人は常に変わっていくものであるし、変化するということをとどめておくことなどできはしないのだ。

 授業が終わると、できるだけなにげなく教室を出た。恐怖にとらわれながら、出口へと向かう。子供ノック人に触られるなんて、きっとすごく気持ちが悪いに違いない。あの子たちのあのにおい!

 本書『ノック人とツルの森』に登場するアディーナの家は、いわゆる「ゴミ屋敷」である。母親であるカーラが毎日のように持ちこんでくる種々雑多なガラクタで、家のなかは溢れかえっており、まともに廊下や部屋を移動することもままならない状態にある。もちろん、掃除などできるはずもないので、衛生的にもけっして良い環境とは言いがたい。だが、それまでずっとその「ゴミ屋敷」のなかで生活し、人づきあいはもちろん、外の世界との交流さえまともにないような暮らしをつづけてきたアディーナと、その弟ボルコにとっては、「ゴミ屋敷」とそこに君臨するカーラの価値観こそが全世界である。物語は、そんなアディーナが小学校に入学し、日々を学校で暮らすようになるところから始まる。

 あくまでアディーナの視点で描かれる本書の世界は、私たち読者のとらえる世界とは微妙なズレが生じている。彼女は自分の家族以外の人たちを「ノック人」と呼び、彼らの暮らしている外の世界が大きな脅威であると母親から言い聞かされて大きくなった。ノック人は危険な存在なので、信用してはいけないし、そんなノック人たちと友達になってもいけない。まして、ノック人を家に連れてくることは絶対にダメだ、そんなことになったらすべてが終わってしまう――アディーナにとって、学校に行くというのは、そんな危険なノック人の世界に放り出されることを意味しており、なぜ母親がそんな危険なことを娘にさせるのかが理解できずにいる。そういう意味で、アディーナのそれまでの自身の境遇に対する違和感は物語の当初から芽生えつつあったものであり、その時点で物語の展開もほぼ決定したようなものだと言える。

 アディーナが唯一知っている世界における<なんてきれいなの><よく見てみなくちゃ><とても捨てられないわ><ああ、これは大切>は、文字どおりの意味をもつものであるが、そこから一歩外に出てしまえば、ただのゴミでしかない。それこそ、ゴミ収集日に家の前に出される価値のないものでしかないのだが、あくまで彼女が「アーデルング・ハウス」と呼ぶ家のなかの世界しか知らないアディーナにとっては、そうしたものをゴミとして捨ててしまうこと自体が理解の範囲外のことであり、彼女を大きく戸惑わせることになる。ほかにも、当初「変な臭い」をさせていると思っていた他の「ノック人」たちから、他ならぬ自分が「クサい」と揶揄され、いじめの対象にされてしまったり、誰も自分のそばによりつかなくなったりといった、数々の嫌な体験の積み重ねによって、アディーナは少しずつ自身の置かれた境遇を外の世界と比較し、もしかしたら自分の過ごしてきた世界こそが異常なのではないか、ということを悟っていく。

 だがそうは言っても、それまで全世界であった自身の価値観を否定することは、理屈ではできても感情的にはなかなか納得できることではない。それは下手をすれば自分自身の否定となり、さらに彼女の大好きな母親を否定することにもつながるからだ。それまで「アーデルング・ハウス」というごく狭い世界しか知らなかったアディーナが、その外に広がる本来の世界と接することで、彼女の価値観がどのように変化していくのか――より詳しくいえば、自身の置かれた立場を客観視し、母親の強烈な支配下から抜け出し、より正当な判断ができるようになっていく一種の成長を描いたのが本書であり、同時にそれまで世間にひた隠しにし、ひたすら内側に収束してきたゴミ屋敷としての事実が、いつ暴露されてしまうのか、という時限爆弾をかかえているという特長が生まれることになる。そしてそれは、アディーナにとってのひとつの時代の終焉をカウントダウンするものでもある。

 母がよくアディーナを抱きしめてくれた時代があった。けれどその美しい時代は終わりを告げた。そのあと、アディーナは数え切れないほど母を抱きしめようとしたが、そのたびに、もう小さい子供じゃないんだから、と言われた。この第二の時代もまた終わりを告げた。そして第二の時代に続いて、いまアディーナの生きているこの時代が来たのだった。

 アディーナの母カーラがなぜ家のなかに大量のゴミを溜め込むようになったのか、本書のなかに詳しいことはほとんど触れられていない。ただ、夫の死を契機に、彼女のなかの何かが壊れてしまったのだということが、かろうじて察せられるのみである。そして、そんなカーラとは対極の位置にいる人物――アディーナのなかで二極化されている「ノック人」の世界にいる人物の代表として、エアラ・マイヤーがいる。彼女はアディーナに、郊外の野生保護区域のことを教え、そこで生きているツルの生態をともに観察する仲になるのだが、その野生のツルたちや、そこに広がる自然の美しさは、それまでのアディーナの世界には存在しなかったものでもある。ごく小さな世界に閉じ込めようとするカーラと、より広い世界をありのままに見せようとするエアラ――その極端な対照を前に、おおいに戸惑い、その価値観のあまりのギャップに苦悩しながらも、それでも他ならぬ自分の世界を再構築し、大きく成長していこうとするアディーナの姿は、それまでの境遇が異質であるがゆえに感動的である。

 入学前からすでに読み書きができたアディーナは、けっして頭の悪い女の子ではない。そんな彼女のもちいる言葉が、しだいに家のなかのものを「ゴミ」として認識し、いつか母がその「ゴミ」を片づけてくれることを待ち望むようになっていく、その心情の変化をたくみに表現した本書が、はたしてどのような結末を読者に用意しているのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.03.18)

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