【中央公論新社】
『煌夜祭』

多崎礼著 

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 この世界に自分が生まれてきた理由、あるいは、自分がこれまで歩んできた人生に、どのような意味があるのだろうかと問いかける行為は、誰もが多かれ少なかれ経験するもののひとつであるが、そのさいに人は、何かしらのストーリー性を求めるという話を聞いたことがある。自分の存在意義、自分の人生の意味を、起承転結のある物語としてとらえようとする私たちの習性は、言ってみれば自分が主人公だという前提があってこそ成立するものでもある。そしてこの「主人公」という単語には、当然のことながら語り手である自分の理想や願望が投影されることにもなる。

 たとえば、子ども向けの伝記ものでは、クローズアップされた人物が「偉大なことを成した偉人」の物語であるという前提がある。それゆえに、そこに載っているエピソードは基本的に「偉人としてふさわしい」ものが大部分を占め、たとえば競争相手を陥れたり、借金ばかりしてまとも返そうとしなかったりといった、非道徳的なエピソードは、たとえそれが真実であっても注意深く隠されてしまう。言い換えれば、ストーリー性を求めるということは、ある物語に対してどのような筋書きを望んでいるかによって、大きく影響されるということでもあるのだ。

 私たちは、物語というものに惹かれる。それは私たちの、客観としての「その他大勢の、どうでもいい人生」を、主観による「意味のある物語」としてとらえなおしたいという、人間であるがゆえの願望にもとづくものである。そういう意味で、今回紹介する本書『煌夜祭』は象徴的である。

「煌夜祭では、世界各地の出来事や先人達の貴重な智慧が、一夜にして語られる。死の海に隔てられし十八諸島において、その物語は金に等しい。ゆえに島主に貴重な話、面白い話、役立つ話をした語り部達に褒美を出す」――(中略)――「けれど――煌夜祭の真の目的は他にある」

 生き物が住めなくなった死の海に、蒸気で浮かぶ島々が浮かび、そこで人々がかろうじて暮らしているというファンタジー的な世界を舞台とする本書の世界では、年に一度、冬至の日に行なわれる祭がある。「煌夜祭」――それは、島々を渡り歩き、物語を語って生計を立てている語り部たちが、年に一度、それぞれの島の島主屋敷に集まって、夜通し物語を披露し続けるというもの。だが、本書に登場するふたりの語り部は、島主屋敷が廃墟になってひさしいターレン島に来ていた。年に一度の稼ぎ時に、その金を払う者のいない廃墟に集うふたりの語り部、それぞれ「ナイティンゲイル」「トーテンコフ」と名乗り、その顔を仮面で覆っているこのふたりは、はたして何のためにやってきたのか。

 本書はこのふたりの語り手が、それぞれの物語を語り合うという形で進んでいく構成で、短編集的な色合いをもってはいるが、短編は完全に独立しているわけではなく、それぞれが独自の形でつながりをもっている。そのつながりは精緻な構造をもって結びついているがゆえに、その順序をふくめて別の形に置き換えることはできず、そういう意味で本書はひとつの大きな物語だと言ってもいいものがある。そして、この大きな物語にはひとつのテーマがある。それはこの世界独自の存在である「魔物」に関することである。ふたりの語り部の紡ぐ物語は、かならず何らかの形でこの「魔物」が絡んでくるのである。

 じつを言えば、本書の精緻な構造も、この「魔物」というテーマを効果的に提示するためのものであったりする。たとえば、最初の物語である『ニセカワセミ』では、冬至の日に人間を食らうという魔物の特徴のひとつを紹介し、同時にその魔物に食われそうになるにわか語り部が、物語を語ることでその食欲を紛らわせるという対策があることを示している。次の『かしこいリィナ』は、いっけんするとある観測士の知恵によって島の危機を救うという物語でありながら、その裏には魔物の不死性という特徴をさりげなく織り交ぜている。「魔物」という、きわめてファンタジー的な存在がいる世界を、いくつかの物語を挟みながら紹介することで、読者を少しずつ物語世界へと引き入れようという工夫が見られるのだが、そうした前置きを受けて、物語はその「魔物」の存在理由へと飛躍していくことになる。

「『魔物はどうして存在するのか』『なぜ死なず、なぜ人を食べるのか』。この問いは今までに幾度も繰り返されてきた。けれどいまだにその答えを見つけた者はいない」

 人を食料とし、どれほどの致命傷を負ってもけっして死ぬことのない「魔物」――ある意味でまさに規格外な存在である彼らは、たしかに人々から怖れられる怪物ではあるのだが、そのなかでもひとつ注目すべきなのは、彼らが他ならぬ人間のあいだから生まれてくるという事実だ。魔物自身が語った物語という触れ込みの『魔物の告白』では、ターレン島の島主の血筋であるガヤン・ハスが魔物と化してしまうのだが、父親も母親もまぎれもない人間であり、それゆえにそれまで人間として育ってきたガヤンは苦悩することになる。そして本書のメインとも言うべき『王位継承戦争』では、十八諸島を統治するイズー島の王位継承にともなう、世界を二分する戦争の顛末が語られるのだが、先王から正式に王位を引き継いだエン・ハス・イズーは、じつは魔物であるという事実が物語を盛り上げるのにひと役買っている。

 魔物と、そんな彼らと関わりをもつことになる人間の物語である本書は、同時に魔物を「魔物」としてとらえるか、「人間」としてとらえるかの物語とも言える。上述の引用にある「魔物はどうして存在するのか」という問いかけは、本書を読み進めていくことで、「なぜ人間のなかから魔物が生まれてくるのか」という問いかけへと変わっていく。そしてそうなったときに、上述の問いかけは、他ならぬ人間という存在への問いかけにもなっていく。本書が見事なのは、そうした構成の妙――それこそ、「煌夜祭」の真の意味するところであるとか、ふたりの語り部の正体とかいったものまで絡めた、物語としての構成力である。

 夜通し物語を語り続けるという「煌夜祭」は、なにより物語を好む魔物たちに襲われないように、という知恵の産物でもあるのだが、同時にそれが元人間だった魔物たちの救いにもなっている。人を喰わずにはいられない魔物としての性質に、いったいどのような意味があるのか、そして物語というものに秘められた人々の思いに、ぜひ触れてみてほしい(2014.06.01)

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