【青弓社】
『恍惚蟲』

山根鋭ニ著 



 たとえば、「利己的遺伝子」という考えがある。これはリチャード・ドーキンスが提唱したもので、ようするに私たち生物は、遺伝子を子孫へ伝えていくことによって自分の種を繁栄させているのではなく、遺伝子が自己のコピーを増やすために私たち生物という乗り物を生み出しているのだ、という逆説的な考察から生まれた考え方なのである。私たちの存在が、たんなる遺伝子のメカニズムの一端でしかない、という事実を、もし本能的な部分で感じとっていたのだとするなら、なぜ私たち人間がときとして、何かを創造したいという衝動――もちろん、そこには正常なセックスによる子育ては含まれない――にかられることがあるのか、なんとなく理解できるような気がする。

 本書『恍惚蟲』に書かれている六つの物語は、どれも一見すると、たんなる異常性欲を理性的に説明しようとしているだけのように思える。たとえば「燃える泥」では、牛の脱糞を見て興奮する男と、サナダムシという寄生虫を十年間も大腸で飼いつづけ、肛門から出したり入れたりすることで感じていた女が出てくるし、「したのもだえ」では、正常なセックスよりもその巨大な舌を使った技巧に燃える男が出てくる。「逆身樹」は、子宮筋腫によって異常に深く枝分かれしてしまった子宮の内部で一本の木を育てるという女の話だし、「洞井守」は、子宮のなかでイモリを育て、その帰巣本能を利用して自慰行為にふける女の話だ。本書の登場人物たちは、本来は自分たちの子孫をはぐくむための生殖器を、けっしてその本来の役割をはたすために使おうとはしない。そして何かと言うと肛門だとか糞だとか尿だとかいった、私たちがふだんはけっして目を向けようとしない、汚いものに対して異常なまでの興味を示している。

 だが、本書をよくよく読み返してみると、彼らはけっして、たんなる異常性欲のためだけに異常な行為をおこなっているのではないことが、だんだんと見えてくる。本書の登場人物たちは、子孫の繁栄という、あくまで遺伝子のメカニズムの一端でしかない、正常な生殖行為による創造ではなく、遺伝子を介しない、無からの創造を実現しようと四苦八苦しているのではないだろうか。そのために自らの子宮を利用し、糞や尿といった自らの排泄物を材料とする彼らもしくは彼女たちは、遺伝子への反逆分子であり、また遺伝子のメカニズムからの脱走者であるとも言える。

 わたしも、この地球がもっと熱くって、あらたな生命が、燃える泥のなかから、つぎつぎと生まれ、進化していくさまをみたかった。『創世記』のアダムをこねあげた神のように、いのちの材料である熱き泥を、この手でこねまわしたかった。それは、現代のどんな天才的な芸術家でもできないような、いきいきとした創造物をつくりだすことのはずです。このうえない充実感をあじわいながら、生きることができたでしよう。

(「燃える泥」より)

 糞や尿といった排泄物は、以前は貴重な肥料として使われ、くみとり便所にたまった糞を盗むということまで行なわれていたという。本書の登場人物たちは、その排泄物が、体内の濾過装置をくぐって浄化された、錬金術でいうところの「賢者の石」にでも見えたのかもしれない。また、生殖器が生殖器本来のはたらきを失ってしまったがために、真の創造への意欲がわきあがり、彼女たちを異常な行為へと導いていったのかもしれない。だが、どうなのだろう。私たち人間ははたして、自分とその配偶者のコピーである「子供」以上の傑作を、はたして創造することなどできるのだろうか。

 人間が生物であることを超越しようとする営み――人間であるからこそのその思索は、それゆえに外から見ると滑稽であり、また空しくも見える。そしてその空しさは、同性愛や性転換、アナル、スカトロ、SMといった異常性愛が氾濫している現代を考えてみると、けっして物語の世界だけの話ではない。

「事実は小説より奇なり」という言葉をよく耳にする。そして昨今の異常な事件の数々を見るかぎり、それは真実なのだろうと思う。小説家の想像力が現実に追いつかないという現状――だが、少なくとも本書の著者に関しては、そんな心配とは無縁のようである。(1999.07.12)

ホームへ