【光文社】
『鼓笛隊の襲来』

三崎亜記著 

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 たとえば、あなたの家族の誰かが殺人事件の被害者、あるいは加害者となることを想定してみてほしい。もし、この書評をお読みの方で、「そんな不吉なことを想定させるなんて!」といった嫌悪感をもたれた方がいらっしゃったとしたら、その点に関しては心よりお詫び申し上げるが、それはこの世界に生きる限り、けっしてありえない事態ではないという事実に、どうか目を向けてほしい。それまであたりまえのようにあったはずの日常が唐突に終わりを告げ、理不尽極まりない非日常に否応なく巻き込まれてしまう事態――毎日たいして変わりばえのしない日常の繰り返しにうんざりすることはあっても、その日常が永遠になくなってしまえばいい、と思っている人はそうそういない。なぜなら、日常とは人々を安心させるための約束事に等しいものだからだ。

 いつもと同じ、という感覚のなかに、日常は生まれ育っていく。そして、たとえば週末にどこかにでかけるといった「非日常」は、日常というベースに立っているからこそ楽しむことができるものであり、もしその日常がなくなってしまったら、非日常もまた非日常ではありえなくなる。家族の誰かが殺人事件の被害者や加害者になる、という事態は、この社会においてはほぼ間違いなく、それまでの日常が破壊されることを意味する。だが、あなたを翻弄する「非日常」は、いつまでも非日常でありつづけるわけではない。それがあなたにとってどれだけ理不尽で不条理なものであったとしても、いずれは別の形をした「日常」として、それがあたりまえのものとして定着していくことになる。本書『鼓笛隊の襲来』は、表題作を含む九つの短編を収めた短編集であるが、いずれ作品においても、まるで冗談のような「非日常」が、何の説明もなく、それこそ唐突に生じ、登場人物たちを巻き込んでいくことになる。

 表題作である『鼓笛隊の襲来』のなかでは、「非日常」は「鼓笛隊」という形をとる。まるで台風のように発生する「鼓笛隊」、それも戦後最大級となる「鼓笛隊」が本土に上陸することが明らかとなり、その直撃を恐れて閑散となった町にあえてとどまったある家族の一夜の出来事を書いているのだが、人々にやたらと恐れられている「鼓笛隊」と、その言葉に私たちがイメージするものとのギャップは、もちろん著者が意図したものである。その行進曲を聞いたが最後、気絶するまでその後を行進させられることになる、という結果のみが過大に語られ、誰もその正体について知らない、という事実――それはある意味で、戦争という言葉ばかりが先行して、その実情を知らないという状況を書いた『となり町戦争』から続く著者の一貫したテーマであるが、この作品の場合、以前の「鼓笛隊」襲来を知っていた祖母の存在が、結果として一種の救いとなっていた。

 だが、いずれの作品も『鼓笛隊の襲来』の祖母のようなキーパーソンがいるというわけではない。いたはずのない恋人の喪失感に苦しむ『彼女の痕跡展』の語り手の女性は、同じように記憶にない恋人の喪失感をかかえる男性の存在を知りながら、けっきょく会うことができなかった。『「欠陥」住宅』に登場する高橋夫婦は、同じ家に住んでいながら、けっしてお互いに会うことができないという奇妙な状況をどうすることもできずにいる。『突起型選択装置(ボタン)』の語り手も、体にボタンがついているがゆえに常に監視されている女性の現状も、自分自身の現状も変えることはできないし、『同じ夜空を見上げて』の語り手の女性も、五年前に電車とともに消えてしまった恋人――その生死が確認できず、ただ「消えた」恋人のことに、いまだに区切りをつけられずにいる。

 本書の短編のなかで登場人物たちを襲う非日常に対して、何か劇的な変化が生じるというわけではない。「非日常」に巻き込まれた人たちは、その理不尽さに翻弄されながらも、いつしかそれを新たな「日常」として受け入れ、たんたんと日々の生活を続けていく。それゆえに、その「非日常」の奇抜さ、破天荒さに比べて、淡々と生きていく人たちの静謐さが際立つことになるのだが、当事者である彼らは、おそらくすでに気がついているのだ。以前の日常はもう戻っては来ない。自分たちを襲った非日常をあらたな「日常」として、受け入れて生きていくしかないのだ、ということを。

 そのあたりのテーマをもっとも色濃く出してきているのが『覆面社員』という短編である。これは、労働者の覆面を被る権利を認めた法律が施行された世界で、妻子をもつ課長との恋愛がなかなか進展しない語り手の友人由香里が、勤め先に覆面を被って出社してくるというシーンからはじまるのだが、これまで紹介してきた短編とは異なり、一見すると理不尽な「非日常」は生じておらず、しいて言うなら、あくまで法で認められた覆面を被る、という変化があるだけだ。だが、私たち読者にとって「覆面を被る」という行為は、プロレスラーでもないかぎり間違いなく「非日常」である。つまり『覆面社員』の世界では、すでに非日常が「日常」として定着した世界が描かれている。それが、あまりにもあたりまえになりすぎて、誰も「非日常」だと思わなくなった世界――そうである以上、人々はそれを受け入れる以外にどのような選択肢があるといえるだろうか。

 そう思うと、私たちが暮らしているこの社会の常識や規範というものは、堅固なようでいて、なんてあやふやなものなのだろうか。――(中略)――そのうち、街中を裸で歩く行為でさえ、社会的に認知された行動となれば、見慣れた風景になってしまうのではないだろうか。

(『覆面社員』より)

 日常と非日常――私たちが厳密に境界線を引きたがるそれらの違いは、はたしてどこで、どうやって生じるものなのだろうか。それはあるいは、きわめて恣意的なものであって、本当はその境界など存在しないのかもしれない、とふと思わされるようなものが、本書のなかにはたしかにある。だが、極端なまでにデフォルメされ、まるで童話の世界のような雰囲気さえ漂う本書のなかで、それを「日常」として粛々と生活をつづける人々の姿を追うことのこのうえない虚しさを思うとき、はたして著者はどこへ向かおうとしているのだろうか、という思いにとらわれてしまう。ふだん、私たちの視界から隠されている歪みをもうひとつの「日常」として読者の前に提示する本書は、あるいはどんな小説よりも容赦のない作品であるのかもしれない。(2008.09.13)

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