【新潮社】
『この世をば』

永井路子著 



 日本人がなかば慣用句的に用いている「肩が凝る」。集中して作業をしているときなどに、ふと疲労がたまっていると感じるのは、日本人であれば「肩」であるが、これが英語を母語とする人たちは「首」になり、フランス語を母語とする人たちは「背中」になる、という話を聞いたことがある。文化圏の違いによって疲労がたまっていると感じる身体的な部位すら変化する、というのは、私たちが同じ人間でありながら、どれほど周囲の環境や土地の違いに大きく影響されるかを示すひとつの例であるが、これは別に地理的な違いばかりでなく、時代などの時間的な隔たりにも言えることだ。

 今という時代を生きる私たちにとって、かつての武士たちが行なってきた「切腹」などは、きわめて野蛮であり、とてもではないが真似できないものだと感じてしまうが、それは私たちがその時代に生きていないからであって、当時の武士たちの心境とすれば、みずから腹を切るという行為を武士としての、あるいはひとりの男としての「常識」として、粛々と受け入れてきた可能性はある。その時代の空気ともいうべきものが、そうした心境を人々に植え付け、育てていくのだとすれば、自分がどの時代、どんな場所で生まれ育ったかという要素は、その人の人格を形作るうえで意想外の影響をおよぼしていることになる。

 時代小説を書くうえで問題となる点のひとつが、こうした時代背景の違いが与えていた人々の意識である。今の私たちにとっては非常識であっても、当時の人々にとっては常識であった要素があまりに多いと、読み手としては登場人物に感情移入しずらくなる。だが、あまりに現代風なアレンジを入れすぎれしまうと、時代小説としてのリアリティに欠けて物語そのものが白けたものになってしまう。今回紹介する本書『この世をば』は、平安時代を生きた藤原道長の生涯を描いた作品であるが、その大きな特長のひとつとして、時代の乖離をうまくコントロールしていく著者の手腕、そのバランス感覚の妙というものがある。

 そんな弱腰では頼りないと思う向きもあるかもしれない。が、一種の度胸と、その反対の極にある醒めた思いは、ある意味での平衡感覚なのだ。政治の社会で思いのほかにその人間の政治生命を長続きさせるのはこの資質である。

 本書のタイトルにもなっている「この世をば」は、道長という人物をもっとも象徴すると私たちが思っているある短歌の頭の五文字だ。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の虧けたることもなしと思へば」――自分がその気になれば、満月が欠けていくことさえ止めることができる、という意味をもつこの短歌は、当時朝廷政治の頂点に立ち、この世の栄華を我が物とした道長の驕り高ぶった精神、傲慢不遜の性格をとらえたものという思い込みが私たちにはあるのだが、本書の道長は、そうしたイメージとは程遠い人物として登場する。それは、出世街道とは縁のない端役としての道長、ごくふつうの人間臭い平凡児であり、それゆえにどこか頼りない藤原家三男坊としての道長である。

 彼の父親である兼家は一条天皇の祖父として権力を振るっており、長男の道隆は生来の人徳と抜け目ない政治的手腕の才能に恵まれている。次男の道兼はルックスこそ最悪ではあるが、出世への野心は人一倍強く、またそのために思い切った手を打つだけの度胸を持ちあわせている。じっさい道兼は、兼家による前帝の退位劇を仕掛けたさいの実行犯として動いており、まさに官位昇進のため、権謀術数のかぎりをつくす政治の渦中の人物として脚光をあびている。言ってみれば、朝廷におけるエリート集団だ。そんななかにあって道長は、ただ兄たちの後にくっついているだけの存在でしかなく、出世についても、あくまで藤原家というエリート出身であるがゆえにおこぼれに預かるという感じで、そのために切磋琢磨しているわけでもない。その華やかなで優雅な表向きとは裏腹の、きわめて泥臭い政治の世界を、はたして無事渡り歩いていけるのかと心配するほどの平凡な道長であるが、左大臣源雅信の娘である倫子との結婚を機に、信じられないような幸運が彼の前にひらけていくことになる。

 本書を読み進めていくとわかってくることであるが、平凡児たる道長は、とくに本書の前半部分については積極性に欠けていて、何か障害があるとそこで踏ん張るよりは早々にあきらめてしまうようなところがある。じっさい、倫子との結婚についても、当初は倫子の父親が藤原家の強引さを嫌っており、それに対して道長はもうひと押しができずにいた。彼が倫子のところに婿入りできたのは、彼自身の努力というよりは、彼の姉であり、また天皇の母でもある詮子の力によるところが大きいのだが、いっけんすると、何もしないうちに政敵が勝手に自滅したり、じつに都合のいいタイミングで重要人物が死去したりという偶然が重なって政治の頂点に君臨したかのように思える道長の、どこにそれを成すだけのものがあったのか、という点が本書の骨子となっている。そして、著者がその答えのひとつとして挙げているのが、上述の引用にも出てくる「平衡感覚」である。

 政治の駆け引きにも、恋の駆け引きにも疎く、ふたりの兄のような才能や激しい野心のない道長は、その平凡さゆえに極端な幸運のただなかにあっても、その幸運に溺れるのではなく、そこから一歩引いて物事を考え直すという態度をとる。自分にその手の才能がないとわかっているからこそ、「こんなにとんとん拍子に出世してもいいものか」と考えてしまうし、倫子とは別の女性につい手を出してしまったときも、妙な小細工やいい訳もせずにひたすら謝ることしかしない。というより、それしかできないことを彼は充分にわかっている。自分がどの程度の人間なのかを把握し、そこから大きくはずれないようにする――それこそが著者のとらえる「平衡感覚」であり、それがじつは稀有な才能であるとも考えている。

 もっとも、道長にまったく野心がないというわけではなく、また自分より位の低い者に追い抜かれたりしたときなどは、激しい対抗意識を燃やしたりもするのだが、そうするいっぽうで自分を客観的に見つめなおし、「やりすぎたかもしれない」とか考えてしまったり、自分の幸運に鼻高々になることもあれば、自分みたいな平凡な男に今の位置は分不相応ではないかと不安に駆られることもある。どっちつかずでふらふらしていながら、極端な方向に暴走することなくきわどいところで道を踏み外さない道長――そこから見えてくるのは、私たちと同じように迷ったり悩んだり、あるいは増長したり打ちひしがれたりする、きわめて人間臭いひとりの男の姿である。

 ――ああ、何たること、何たること。

 男性が複数の女性のもとに通い、婚姻関係にあるのが常識であったり、怨念史観がまかり通り、呪いや祟りといったものが実在すると真剣に考えられていた平安時代は、今の私たちが生きる時代とは大きな隔たりがあるのだが、ごく平凡な道長という人間臭いキャラクターは、その隔たりをかぎりなく小さなものとする役割をはたしている。この評の冒頭でも述べたことだが、著者はときに現代の視点で物語世界をユーモアをまじえて解説する文章をはさむなどして、どちらか一方に極端に傾かないような配慮を怠らず、その結果、平安時代の雰囲気を壊すことなく、物語としての面白さを維持するというバランスをとることに成功している。さらにいうなら、どこか頼りない道長を陰で支える、という意味で倫子をはじめとする女性たちの存在は大きく、それもまた平安時代の特色――朝廷政治における女性の役割――を際立たせる要素のひとつとなっている。

 藤原道長という人物を従来とはことなるイメージでとらえるだけでなく、平安時代という今とは異なる世界を見事に再現してみせている本書は、時代小説として稀有なまでのバランス感覚で書かれた作品だと言うことができる。(2014.05.11)

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