【角川書店】
『この闇と光』

服部まゆみ著 

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 本にしろ映画にしろ演劇にしろ、ほんとうに素晴らしい物語と出会ったとき、私はしばしば物語の世界の中にどっぷりと浸かってしまい、周囲の現実が目に入らなくなってしまうようなことがある。まるで、自分が物語の中に出てくる登場人物のひとりであるかのように思われ、物語が終わった後も、しばらくはその雰囲気が自分の性格にまで影響をおよぼしてしまうのだ。明るく楽しい物語なら、普段よりも快活で積極的になり、暗く悲しい物語なら、自分も妙にふさぎこんでしまう、といったふうに。だが、物語はあくまでも物語――虚構の世界にすぎない。遅かれ早かれ、かならず「ありのままの自分」という名の現実に目覚めなければならなくなる。そこは、物語の世界のように美しい調和に溢れているわけではない。あらゆるものが不安定で、ぎこちなく、このうえもなく醜いものが渦巻いている世界だ。そして、そんな世界に生きている自分という存在もまた、同様なのだということを思い知ることになる。
 いつまでも物語の世界のなかで暮らしつづけることができれば、どんなに素晴らしいだろう、と思う。もちろん、そんなことは不可能だ。夜はかならず明けるし、夢はかならず醒める――それが、私たちにとっての現実を生きることに他ならないからだ。

 本書『この闇と光』のなかには、レイアという名の少女が登場する。小さい頃に母をなくし、自らの視力もなくしてしまっている彼女は、父とともに別荘の中のごく限られた空間で生活している。小さい彼女には、あまり難しいことはわからない。わかるのは、父が国王であり、ときどき国のあちこちへ出かけなければならなくなること、別荘の中にはダフネという女性と「兵士」と呼ばれる異国の人たちがいること、そして、父は優しく、ダフネは意地悪で、「兵士」に見つかると魔女として殺されるかもしれない、ということだけだ。

 人間は、基本的に視覚によって情報を収集する生き物だ。それゆえに、レイアが認識できる世界は非常に限られたものである。だが逆に、目が見えないがゆえに、世の中のさまざまな汚いもの、醜いものを知らずに済むことができる、と言うこともできよう。本書の中でレイアは、まだ目が見えていた頃のわずかな記憶と、目が見えなくなったぶん発達した聴覚や触角を駆使し、独自のやり方で文字を覚え、文章を書いたり、父が特別につくった本を読んだりすることができるようになるのだが、その頃から積極的に物語と親しむようになる。『小公女』『青髯』『嵐が丘』『デミアン』――父がレイアにもたらす物語は、どれも世界の名作と呼ばれるようなものばかりだ。音楽にしても、最初は童話、成長するとクラシックが主となる。外の世界から隔絶した小さな空間のなかで、まるで純粋培養されるかのように、レイアは美しい物語だけをとり入れることによって、自分にとっての現実を築き上げていくことになる。盲目という闇の世界のなかで、レイアはまさに「光の娘」であり、完全に調和した物語の世界こそが唯一の現実なのである。

 だが、その完全な世界は、思いがけず屋敷から解放され、手術によって再び目が見えるようになることで一変する。さまざまな色彩に溢れた光の世界――けっしてかなわぬ夢として想像のなかのみで構成されていた現実の世界は、しかし彼女が小さい頃から親しんできた物語の世界ほど美しいものではない、ということを徐々に理解するようになる。それは同時に、彼女にとってあらゆる意味で「ありのままの自分」を受け入れなくてはならないことにもつながっている。光は視覚のあるものに真実の姿を照らしめる。だが、光は美しいものも醜いものもおかまいなしに白日の元にさらけだしてしまう。闇は人の恐怖をかきたて、いるはずのないものを生み出してしまう。だが、闇は醜いものも目の前から消してくれるのだ。闇の世界から光の世界へ――それはあるいは、第二の誕生を思わせるかもしれない。「光の娘」は光の世界に生まれ落ちることで、自らの光と、文字どおりの意味で少女性を失ってしまう。周囲に溢れる光が、あまりにも明るすぎるために、いやでも真実と直面せざるをえなくなるのだ。

 人はなぜ真実を知りたがるのだろうか、とふと考える。無知は罪だという言葉があるが、別荘の限られた空間で、光を失ったまま築き上げた物語の世界が、光溢れる真実の世界にくらべて異常なものであると、いったい誰に言えるのだろう。人間は知恵を手に入れ、あらゆるものに名前をつけ、科学の力で闇を打ち払う力を得た。だが、そのことでたしかに生活は豊かになったのかもしれないが、その代わりに何かもっと大事なものを失ってしまったのではないか、という想いが本書を読むと湧きおこってくる。

 この恥辱に満ちた愚かな年代……愚かな世界……世界は光と闇で出来ている。それを薄々知りながら、それでもなおかつ決して闇を視ようとしない人々……注意深く避け、無視しようとする人々のことだ。それは自身の暗い部分から、目を逸らすことでもある。そして一旦それに気づいた者は、もう光だけを視ることはできない。

 本書は一人称で書かれた物語であるが、盲目であること、幼いということ、そして少しずつものを覚え、成長しているということを直接的な言葉を使うことなく、たしかに読者に伝えることのできるその文章力は賞賛に値するものであろう。また、ここでは詳しく言わないが、本書にはさまざまな謎が隠されており、それまで語られていた物語が完全にひっくり返ってしまうかのような展開が待ち構えている。そういう意味では、ただ純粋に物語を楽しむつもりで本書を読んでいると、とんでもない逆襲を受けることになるだろう。

 レイアはなぜレイアだったのか、父はなぜ父だったのか――この意味を知りたい人は、ぜひ一度本書を読んでみてほしい。(2000.02.14)

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