【新潮社】
『この人の閾』

保坂和志著 



 保坂和志というと猫がからむ小説を書く人というイメージが私にはあったのだけれど、本書『この人の閾』に収録されている表題作を含む四つの作品の中で猫が出てくるのはたった一作だけ(『東京画』)で、ちょっと傾向が変わったのかなと思ったのだけど、著者独特とも言えるくどくどと長く続く、それでいて読む人を心地よくさせる文章はそのままで、というか以前読んだ作品よりもより磨きがかかっているような感じがしたのだけれど、作品が書かれた年代を見ると、けっこう古い作品も収録されていることがわかって、けっきょくのところ著者の文体は当初から一貫して続いているんだなあと実感した(ああ疲れた)。

 本書『この人の閾』に収録されている作品も含めて、保坂和志の一連の作品に共通して言えることだが、作品を紹介するのにストーリーの概要を使うことは、まったく無意味である。『この人の閾』では、小田原に出張した男が空いた時間をつぶすために、大学時代の友人である女性の家を訪れるという、ただそれだけの話だし、『東京画』は玉川上水の近くに引っ越した男がその町の様子をつらつらと眺めるという、ただそれだけの話だ。『夏の終わりの林の中』では男が女にさそわれて自然公園の中を散策するだけだし、『夢のあと』も知り合いの笠井という人といっしょに子供の頃に遊んだ場所へ行く、というだけの話なのだ。こうしてシチュエーションだけ書き並べてみると、何か大きな物語に発展していきそうな雰囲気ではあるが、一連の作品では書かれてある以上のことは何も起こらない。深読みすらさせてもらえない。「三十代後半の男と女が昼下がりに会うなんて"昼メロ"ならそのまま十年の不在の時間を越えて常時の始まりになってしまうが、ぼくと真紀さんでは十年の不在は「不在」よりももっと何もない(『この人の閾』より)」と作品の中でことわっているように、著者はおそらく、そういった物語の流れを意図して避けて作品を書いているのだろう。

 それでいて、これらの作品は小説として充分楽しむことができる。物語が存在しない分、登場人物の言動や思考が秀逸なのだ。物語の筋で引っ張ろうという作品が氾濫する現代において、これはものすごいことではないだろうか。それともうひとつ、『この人の閾』の諸作品は、時間の流れがひとつのキーとなっている。「十年ぶりに友人に会う」「××町の移り変わり」「松林が極相林へと遷移していく」「昔遊んだ場所を訪れる」――だが、よくありがちなノスタルジーのようなものはない。

「だから、ノスタルジーはダメなんだよ。自分たちのこととか,あたり前のこととか、そんなことばっかり言ってるだけなんだから。」(後略)

 『夢のあと』のなかで、笠井という人はこんなことを言う。今の世の中のように「変わらなきゃ」とも、山田洋次監督の諸作品のように「変わらないものがあってもいいじゃないか」とも言わない。ただ、そこに起こった変化をそのまま描き、ふと何かを感じたり考えたりする。おしつけがましいものが何もない、というのも、この作品がもつ味わいのひとつだろう。

 練りに練られたストーリーのもと、魅力的なキャラクターが事件に立ち向かったり大活躍したりする、激しい動きのある作品も好きだが、保坂和志の作品のように、ゆるやかな時間の流れを思いながら、それなりに生きる姿を描くものも好きだ。(1998.11.22>

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