【ポプラ社】
『困ってるひと』

大野更紗著 



 たとえば、利き腕。
 世の中にあるものの大半は、人の利き腕が右手であることを前提として作られている。自動販売機の硬貨投入口や自動改札機のタッチパネルは右側にあり、引いて開ける側のドアノブは、特殊な事情がないかぎりは左側についている。右手でコインを投入して缶ジュースを買い、右手でカードをかざして改札口を通り、そして右手でドアを引き、中に入る――右手であれば何の苦労もなく、あたり前のようにできる行為が、いざ左手をもちいるとなると、とたんにちょっとした不便さに見舞われることは、少しばかり想像力を働かせればわかることである。わかることなのだが……右利きに慣れきっている人たちが、その不便さをいつもいつも意識しつづけるというのは、それがあたり前であるがゆえに難しい。

 人間社会においてマイノリティであることは、マジョリティが当然のように受けている恩恵から外れることを意味する。新薬開発ひとつとってみても、それがどれだけ多くの人に使われ、どれだけの利益をもたらすことになるのか、という原則から逃れることはできない。言い換えれば、世の中に数人くらいしかいない、奇妙奇天烈な難病をかかえた人たちの特効薬というのは、たとえ開発が可能だったとしても、後回しにされてしまうか、見向きすらされない、ということでもある。そうやって社会というものが動いていることは、理屈ではわかるのだが、意図せずマイノリティの立場に立たされた人たちにとってはたまったものではない。とくに、それが命にかかわるようなことであれば、なおさらである。

 そうではなかった。ここは、マリアナ海溝なのだ。難病患者は、「制度の谷間」に落ち込む、福祉から見捨てられた存在だった。

 本書『困ってるひと』の著者は、そんな世にも稀な難病を抱え込むことになってしまったマイノリティの方である。体内に侵入した病原菌などから自身の体を守るはずの免疫機能が異常をきたし、体の内外の皮膚という皮膚や筋肉に炎症をひきおこす自己免疫疾患の一種で、基本的にはステロイドや免疫抑制剤で病態を抑えていくしかないという状態、そして免疫機能を抑えるということは、風邪などといったオーソドックスな病気そのものすら致命的になりかねないということであり、それらの薬がもたらす副作用は、少しずつではあるが確実に患者の体を蝕んでいく。

 文字どおり、明日はどうなるかわからない、という生死の境目ギリギリを綱渡りしているような毎日をおくっている、本人いわく「エクストリーム困ったひと」たる著者のエッセイが本書であるが、「闘病記」ではないと断ってはいるものの、その内容の大半は自身の病気のことである。しかも、発病から一年はさまざまな病院を転々とするだけで治療はおろか、病名すらわからないという状態がつづき、ようやくたどり着いた「オアシス」こと某大学付属病院で病名がつけられたものの、そこにいたるまでの検査の数々は、読んでいるだけで血の気が失せそうになるような代物ばかり。もちろん、そのあいだも病態は際限なく著者を犯しつづけているわけで、生存するという、ただそれだけのことがとんでもない戦いの日々と化してしまっている。

 その壮絶な闘病の日々は、もはや本書をじっさいに読んでもらったほうが、ここで説明するよりもよほど手っ取り早いし、その体験をどのように受け止めるのかも読者次第ではあるのだが、私が個人的に気になったのは、著者の本書に対するとらえかただ。上述したように、著者は本書を「闘病記」ととらえることを拒否している部分があるのだが、闘病記でないとしたら、いったい何を書こうとしたものなのか。

 著者は生まれたときから難病持ちだったわけではなく、発病前は大学院生として非常にパワフルな生活をつづけていた。ビルマ難民の境遇にことのほか肩入れするようになった彼女は、彼らの現状を理解してもらうために国内の活動はもちろん、現地の難民キャンプにも何度も足を運ぶことも平気で行なっていた。なんでも自分で考え、できることはなんでもこなしてきた、猪突猛進な自分――だが、突如発生した難病は、自分自身を「難民」の当事者にしてしまったと著者は語る。それも、頼るべき国を失った難民ではなく、頼るべき病院、頼るべき治療、頼るべき福祉を失った医療難民として。そして本書における著者の立ち位置も、その一点にこそある。

 この書評をお読みの方で、はたしてビルマ難民のことを知っている人が、はたしてどれくらいいらっしゃるだろうか。おそらく私もふくめ、意識することさえなかった、という人が大半だろうと推測するのだが、そうした難民たちの「当事者」であるという著者の認識は、これと似たようなところがある。それは、彼らがマイノリティであるということだ。そしてマイノリティであることは、さまざまな意味において弱い立場に立たされている者たち、ということを指す。

 本書の枕で自動販売機と利き腕の話をしたが、これはたとえば小人症の人たちにもあてはまる。大人になっても極端に身長が低いままの病態をかかえた小人症の人たちにとって、自動販売機の硬貨投入口は、あまりにも高い場所にある。それは、自動販売機が一般的な身長の大人が立って使用することを前提に作られたものだからなのだが、同じことは車椅子生活を余儀なくされている人たちにも言えることである。

 もっとも彼らのように、ひと目見れば特殊であることがわかる場合はまだいい。なかには、いっけんすると健常者のようにしか見えないにもかかわらず、重大な疾患を抱えているという人がいるという事実だ。著者自身にかんしても、その近影を見るかぎりにおいて、ただの女性のようにしか見えないという意味において、こうしたやっかいな人たちに含まれるのかもしれない。じっさいには、お尻に大きな空洞ができてしまった、まぎれもない難病者である。だが、見た目が普通の彼らのマイノリティ性を、はたして私たちがどこまで理解することができるのだろうか。

 著者にとっての難病というマイノリティ性は、やっかい極まりない代物だ。だが、そうした疾患を抱えながらも、その筆致にどことないユーモア性を織り込むことができるのは、そうした自分自身をどこかで客観視できているからに他ならない。そしてその客観性は、同時に自分以外のあらゆる他者にも向けられている。けっして自分で選んだわけではない肉体をかかえ、いろいろと四苦八苦している私たち――たとえば、私が男であり、ゴツゴツした体つきであることは、けっして自分で望んでそうなったわけではないのだが、そうした体つきの者が近くにいるというだけで、何らかの不安を感じてしまう女性の存在は、私にしてみれば理不尽なことだと思わずにはいられない。だが、そういうことなのだと思うしかないのだ。

 私はほぼ間違いなく健常者であり、それゆえに難病をかかえた人たちの苦しみや辛さをわかってあげられるわけではないし、そんなことは著者自身も望んではいない。ただ、望まずしてマイノリティに転がり落ち、そのことと向き合ってギリギリの生を生きなければならなくなった著者の生き様は、私たちにとっても何らかの形でかかわってくることでもある。だからこそ本書は、けっして同情だけではない何かを読後にもたらすことになる。その何かを、ぜひたしかめてほしい。(2012.03.26)

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