【中央公論新社】
『告白』

町田康著 



 テープなどに録音された自分の声が、ふだん自分の耳で聞いている自分の声とくらべて、ずいぶん違ったふうに聞こえることがあるように、自分のなかでこうだと信じている自分像と、自分以外の他人が感じ取る「自分像」とは、かならずしも一致するわけではなく、そのあいだには大なり小なりの隔たりがあったりするものだ。前者の場合は、他人が空気振動のみを聞き取るのに対し、自身はそれに脳内の肉や骨の振動がプラスされた声を聞いている、という違いがあるが、後者の場合、自分と他人を隔てているのは、たえず自身の内でおこなわれている思考の流れである。

 たとえば、あなたが混雑した店内を通り抜けようとして、ある人の背中をちょっと押してしまう格好となり、その人がえらい剣幕で怒鳴り散らしたとしよう。あなたにしてみれば赤の他人であるその人物のことを、はたしてどう思うだろうか。「たかだかこの程度のことで怒りだすなんて、なんて短気な人なんだろう」と判断することだろう。だがその当人の思考を覗いてみると、その日は朝から調子が悪く、仕事や家庭のことで不愉快なことがいくつかつづいて虫の居所が悪かった。そして、これ以上不快な気分に耐えるのはもう我慢ならない、という抑圧されたものがあった。彼の脳内では、この日この瞬間に自分が怒り出すちゃんとした理由があり、それは彼自身のなかでは論理性をたもっているものと判断されているのだ。そしてこの違い、つまり、自分自身のことを客観的な立場でとらえることは非常に難しい、という違いこそが、自分と他人、しいては自分と世界とを隔てる大きな壁なのだ。

 私たちはこの世を生きていくうえで、自分のほかに他人がいて、そんな他人が寄り集まった世界――かならずしも自分の思いどおりになるわけではない、理不尽な世界――が広がっていることを学んでいく。自分の考えていること、感じていることは、あくまで自分ひとりにのみ通用することで、かならずしも他人が同じように考えたり感じたりしているわけではない。それゆえに、私たちは言葉をもちいて他人とコミュニケーションをはかり、少しずつお互いの考えや感覚を共有しようと試みる。だが、具体的な地名や数字勘定といったものであればともかく、自分の心のうちに渦巻いているさまざまな思いや感情、思考の流れといったものを、完全に表現できるほど言葉というツールは完全でも万能でもない。小説や詩、あるいは短歌や俳句といったものは、そうした複雑な自身の心の内をなんとか誰にでもわかるように表現しようと苦心した結果として生まれたものであるが、おそらく本書『告白』の著者である町田康は、「自分」とも「世界」ともズレたところで成立しているもうひとつの世界ともいうべき「言葉」の性質について、もっとも意識的な作家である。

 本書は河内地方(現在の大阪府南東部あたり)の有名な盆踊り唄で、今もなお人気の衰えない「河内音頭」のなかにある、「河内十人斬り」を題材とした作品である。これは明治26年にじっさいに起こった大量殺人事件をベースとしており、首謀者とされる城戸熊太郎と谷弥五郎は、女子供をふくめ文字どおり十人を斬殺後、金剛山に立てこもって自殺するという最悪の結果を残した。このいかにも血なまぐさく、陰惨な殺人事件の首謀者のひとりである城戸熊太郎を主人公にし、彼の幼少のころからじっさいに殺人事件を引き起こすまでの二十数年を追うようにして書かれた本書は、当然のことながらなぜ熊太郎がそのような大量殺人を犯すにいたったのか、さらには「河内十人斬り」のなかで、殺人の首謀者であるはずの彼がまるでヒーローであるかのように唄われているのはなぜなのか、という大きな疑問に著者なりの答えを見つけるためのものである。だが、それ以上に私が本書を読み終えて思ったのは、著者にとってまず「河内十人斬り」ありきで物語を書いたわけでなく、むしろ「河内十人斬り」という、不思議な点がいくつも残る事件のなかに、著者が小説家として追いつづける共通のテーマを強く感じさせるものがあったのではないか、ということである。

 そのことをもっとも端的に表わしているのが、本書の主要人物である城戸熊太郎だ。彼は何かにつけて、自分の言動についてしつこいくらい「なぜ」と問いかけていく。彼自身が「思弁的」と言うところのこの自身への問いかけを深く掘り下げていこうとする性癖は、しかしそれを的確に表現するための言葉と結びつかず、それゆえにいつまで経っても彼の外に出ていこうとしない。その結果どうなるかといえば、彼の中で思っていることと言動とがまったくもってバラバラに乖離してしまうことになる。

 熊太郎のなかではそれなりの論理をもって成り立っていることが、それを相手に伝えるための言葉につながらないがために、相手は彼のその言動不一致ぶりに不信をいだき、あるいは頭の弱い人間だと判断してしまう。ようするに、「自分」と「世界」をつなぐための「言葉」の不在によって、熊太郎という個と世界とのあいだにある種の溝が生まれ、それがさまざまな要因によって取り返しのつかないくらい深くなってしまう様子を描いていったのが本書であり、彼が引き起こした「河内十人斬り」は、あくまでその結果でしかない。一応三人称ではあるが、間違いなく熊太郎を主体とし、彼の脳内の「思弁」をできるだけ忠実に表現しようとしている本書の読みどころは、まさにその「思弁」が空回りして自家中毒を起こしていくさまであり、著者自身がもつ文章力とあいまって、読者をわけのわからないまま、しかし確実に本書の世界に引きずり込んで離さない迫力をもっている。

 私たち人間はふだん、自身の言動について何から何まで意識しておこなうわけではない。なぜなら大抵の言動については、とくに「なぜそうしたのか」といった疑問が解消されなくとも自身の日常生活にとくに大きな支障をきたすわけではないし、そんなことをいちいち気にしていられるほど、生きていくのは楽なものでもないからだ。だが、熊太郎はそうした疑問をそのままにしておくことができない。何か答えが出るようなものであればいいが、いくら考えても明確な答えの出ない命題というのは世の中にいくらでもあって、にもかかわらずそれに何らかの答えを導き出そうとするなら、たとえそれが嘘でもかまわないから、自身が納得のいく「答え」を正しいものとして掲げるしかない。そしてその答えはあくまで自分のなかでのみ通用するものであり、私たちは多くの人と接することで考えをあらためたり、修正をくわえたりしていくものであるのだが、熊太郎の場合、それを相手に伝えるだけの言葉をもっていない。それは仮に、熊太郎が間違った「答え」をもったとしても、それを正す根本的な方法が存在しないことを意味している。結果として、一度いだいた「答え」を正当化するために、無意識にうちに嘘を積み重ねていくことになる。

 熊太郎が最終的に殺すと決意した人物は、たしかに嘘つきの極悪人であり、結果的に熊太郎の起こした大量殺人はまさに勧善懲悪の形をとることになる。だが、本書のなかで本当に重要なのは、それまで熊太郎という個のなかだけで成立していたものが、膨張に膨張を重ねた結果、彼の外にある「世界」を凌駕するにいたった、ということであり、それはある意味で小説という虚構の世界が現実世界を凌駕することにもつながっていくものなのだ。

 私が発する声は、じつは自分以外の誰の耳にも正しく届いていないという事実――それは、まるでこの世界に自分ひとりだけが取り残されたかのような、なんとも不安な気分に陥らせるものであるが、本書のなかで熊太郎がいだいていた、言葉が通じないがゆえの孤独が、はたしてどのような思念を生み出すにいたったのか、という命題は、間違いなく過去ではなく現代の私たちがかかえている問題に結びつくものである。(2005.06.15)

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