【岩波書店】
『こころ』

夏目漱石著 



 この書評をお読みの方は、自分自身をどれくらい信用しているだろうか。

 自分自身を信用する、などと言うと、いかにも奇妙なことのように受け取る方もいらっしゃるかもしれない。自分はあくまで自分であり、自分の目が見たもの、自分の耳が聞いたもの、そして自分の意思で考えたことは、まぎれもない自分自身のものである。けっしてそれ以上でもなければ、それ以下でもないし、他の誰かが自分の体を動かしているわけでもない。それはあたり前といえば、あまりにもあたり前のことであって、そんな自分の意思から発されたはずの言動を、他ならぬ自分自身が信用できなければ、いったい何を信用することができるのか――私も何年か前まではそんなふうに思っていた。

 だが、私はすでに、自分自身という代物が、ときに自分でも説明のつかないような言動を引き起こしてしまうことがある、ということを経験上知っている。ふだんの私であれば、どう転んでもやるはずのない愚かなことをしでかしてしまう、というまぎれもない事実は、一時期私自身をどうしようもなく打ちのめした。私は、私自身が根本的に信用のならない存在であることを知ってしまった。自分自身を信用することができないのに、どうして自分以外の者を信用することができるだろうか――そんな自己への不信感、しいては人間そのものへの不信感は、突きつめていくとどうしようもなく自分自身を孤独の淵に追い込んでいってしまうことになる、ということも、私はもう知ってしまっている。

 だからこそ問わずにはいられないのだ。あなたは自分自身をどれくらい信用しているのか、と。そして、もし自分で自分を信用できなくなることが、他ならぬ人として生きることの罪であり、罰であるとするなら、私たちはどのようにしてその事実と向き合い、折り合っていくべきなのだろうか、と。

 人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人、――これが先生であった。

 本書『こころ』という作品の中心になっているのは、一人称の「私」が「先生」と呼ぶ人物である。高い学歴とそれに見合う教養をもち、それなりの財産もあり、そして美しい妻とつつましいながらも仲むつまじく暮らしていながら、まるで隠者のように世間に背を向け、ひっそりと生きているように見える「先生」と、鎌倉の海水浴場で出会ってから、「私」は学生の本分である学業もそっちのけで、何かにつけて「先生」のお宅を訪れるような間柄となるが、接すれば接するほど「先生」という人物がわからなくなっていく。世の中のあらゆる事柄に対して冷徹な――ときには自分自身のことに対してさえ無関心であるかのような態度をとりつづける「先生」は、「私」がこれまで会ったどんな人とも違った何かをたしかに抱えていた。それはいったい何なのか。「先生」を今の「先生」にしたはずの過去を知りたいという「私」の欲求は、しかしまったく思いがけない形で実現することになる。遺書という形で届いた、非常に長い「先生」からの、自身の過去の罪を告白した手紙という形で……。

「先生」という人物を最終的に自殺に追い込むことになった、彼の過去とはどのようなものであったのか――本書のほぼ後半全部を占めている「先生」の遺書の、ひとりの人間としての感情の揺れ動きや、その苦悩の深さ、葛藤といったものをリアルに描き出していったその手腕が圧倒的であるのは間違いなく、またその部分こそ本書の最大の読みどころでもあるのだが、おそらくこれまでにも数多くの議論がなされたであろう「なぜ先生は自殺したのか」という設問について、とりあえずの言及はこの場では行なわない。むしろ、私が本書を読んであらためて感じたことがあるとすれば、この物語がまさに人と人との関係、とくに、人間の心に芽生える「愛」について追求しようとした作品ではなかったか、ということである。

 本書は大きく三つの章で構成されており、まず一人称の「私」から「先生」なる人物と知り合いになっていく過程を書いた「先生と私」、次に、父親が腎臓の病気であまり長くないことを知った「私」が、大学を卒業後に実家に戻ってからの顛末を書いた「両親と私」、そして最後に、いよいよ父親が危篤というときに「私」のもとに飛び込んできた「先生」からの長い遺書を手に、東京への列車に飛び乗った「私」が、その席で目を通した遺書の内容を書いた「先生と遺書」となっている。そのうち、真ん中の章である「両親と私」に関しては、世間一般の「先生」――それは、とくに仕事もすることなく過ごしている高等遊民への批判的な見解であるが――に対する印象を、「私」の家族の立場から語らせるという場面がいくつかあるものの、基本的には「先生」がかかわることのあまりない章だと言ってもいい。それゆえに、たんに「先生」の自殺という点で本書を読んでしまうと、この真ん中の章に中途半端な印象をもたれてしまうのだが、とくに衝撃的な「先生」の自殺ということだけでなく、彼の過去もふくめ、そこにいたるまでの人間関係、さらには「私」自身の人間関係というものにあらためて目を向けてみると、そこにはじつにさまざまな人と人との愛の形があるということに気がつく。

 それは友情としての愛であり、師弟関係にも似た愛であり、また男女の愛情であり、そして何よりも自己愛であり、それぞれの愛情が対立するものとしてぶつかったときに生じる苦しみや葛藤でもある。

「私」という視点からとらえた「先生」の人物像は、どこか人との関係性を遠ざけるような印象をもたせるようなものだった。そのことについて、「先生」は自分自身の価値観を貶めるようなことを言い、また人間そのものが好きになれない、とも「私」に語るのだが、にもかかわらず妻との仲はけっして悪いようには見えず、また「私」がしばしば家を訪れるのを、強いて拒むようなこともしない。そのうち、「先生」の過去に何か並々ならぬ出来事があり、それが今の「先生」を形づくっていることに「私」は気がつくが、遺書という形で示された「先生」の過去とは、まさに愛情と、その裏返しのものとしての憎しみが、ひとりの人間としての「先生」を破壊していく過程でもあった。

 先にも書いたが、なぜ「先生」が自殺という道を選んだのかは、私にもよくわからない。ただ、本書を読んでわかってくるのは、かつて信じていたはずの叔父が、じつは死んだ父親の財産を横領していたという過去が、「先生」を人間不信に陥らせたのだとすれば、友人Kを、その友情ゆえに救おうとしながら、結果としてKを出し抜く形である女性と婚約し、それがKの自殺の引き金となってしまったという過去が、自分自身への不信につながっていった、という事実である。人を愛したいと思いながら、しかしその愛という感情を引き起こす自身の心が信じられない、という矛盾が、最終的に「先生」を死に向かわせることでしか決着がつけられないものだったとするなら、それはなんという人間の苦しみなのだろうか、と思わずにはいられない。

 世間はどうあろうとこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識したとき、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

 自分がまぎれもない自分でありつづける、ということは、ほかでもない、自分が「こうありたい」という自分でありつづける決意でもある。だが、その理想の人間像を維持しつづけることの、なんと難しく、その道のなんと孤高であることか。人間を憎み、人間を愛し、そして人間を愛するがゆえに自分自身を裏切らなければならなかったひとりの人間のおおいなる葛藤は、現代に生きる私たちにとってもけっして無関係ではない、という確信が私にはある。(2005.11.28)

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