【幻冬舎】
『孤独の賭け』

五味川純平著 



 お金というのは、ないよりはあったほうがいいに決まっている。なぜなら、私たちの生きるこの世界では、お金の有無がその人の自由度を大きく変える要因となりうるからである。やりたいこと、実現したい夢がたくさんあれば、それだけお金が必要となってくる。金だけがすべてじゃない、という言葉を否定はしないが、自由に使える資金があれば、そこにたどりつく道がぐっと近くなることは事実だし、それまで手が届かなかったものにも手が届くようになる。ただその日その日を生きていくだけであれば、それほどお金は必要ないのかもしれない。だが、人々がもたずにはいられない野心や欲望にはたいてい値段がつけられ、それで世の中が動いている。そういうシステムのなかに、私たちはいるのだ。

 たとえば考えてみてほしい。私たちは誰もが将来に何らかの不安を抱えている。もしかしたら重い病気を患うかもしれないし、大怪我を負って何ヶ月も入院生活を余儀なくされるかもしれない。働き手の夫が失業するかもしれないし、何十年もローンが残っているマイホームが地震で倒壊するかもしれない。不幸というものは、その人の都合などおかまいなしにやってくるときはやってきてしまう。たとえ、お金の使い道にさほど興味のない人であっても、そうした漠然とした不安を払拭したいという「欲望」はある。そしてそんなとき、きまって私たちを支配するのは「お金さえあれば」という思考なのである。

 だが、同時にこんなふうにも思う。大金持ちになる、地位と名誉を手に入れる、幸いにもその目標を達成できたとして、そのあとどうするのか? 大金をもつというのは、一種のステータスだ。そのステータスは高ければ高いほど、それを維持するのにいろいろな苦労がともなうし、多くのエネルギーを消費することにもなる。人間の欲望はかぎりなく、多くを持てばさらにもっと多くを望むことになるかもしれないし、失うことを必要以上に怖れることになるかもしれない。ないよりはあったほうがいいお金――だが、仮にお金があったとして、それを正しく使うというのは、私たちが考える以上に難しいことではないのか、と。

 本書『孤独の賭け』は、ふたりの主要な登場人物を中心にして物語が進んでいく。ひとりはしがない縫子の乾百子。彼女はいつか自分の洋裁店をもち、世の中を自分の才覚で成りあがっていきたいという強い野望をいだいていた。自分を雇っている小さな洋裁店が現在火の車であり、近いうちに担保として差し押さえられるという情報は、労働者の身としては失業につながる事態だったが、彼女はそこに自分のすべてを賭ける好機を見ていた。
 もうひとりの登場人物は、若き実業家である千種梯二郎。キャバレーなどの娯楽産業で無一文からのしあがってきた彼は、今や財界の大物に取り入って日本最大の娯楽施設の建設という、壮大な夢の実現にあと一歩というところまで来ていた。

 物語の宿命として、ふたりは出会うべくして出会う。若い男女の出会いともなれば、そこに何らかの恋愛感情を期待するのが基本かもしれないが、そんなふうに物語が展開していかないのが本書の大きな特長のひとつである。その要因の第一にあるのが、乾百子という人物の特異性である。

「男がどんなにお金持ちだって、あたしには駄目なのよ。いっしょうけんめい取り入って、おかねか不動産か知らないけど、分けてもらえたとしない? 女にできることは、それだけ? それがチャンスなの? そのために女はどれだけのことをしてみせなければならないの?」

 何よりも「自分のお金」をもつということにこだわりを見せる百子には、自分の家族のものであったはずの土地と住居を、叔父一家に奪われたという過去があり、そのせいで相当の苦労を負わなければならず、何の後ろ盾のない生活は今もつづいている。彼女の叔父一家への憎しみは大きく、まるで復讐を果たすために生きているような一面さえ覗かせる百子であるが、そんな彼女が、来るべきその第一歩を踏み出すのに、左前になった洋裁店に目をつけたのは、非常に象徴的である。同情や憐れみでは食っていけない。チャンスがあれば、たとえ他人がどれだけ傷つこうとがむしゃらになる百子が梯二郎に求めたのが、愛ではなく洋裁店を買い取るためのお金だったというのは、必然といえばあまりにも必然だったと言える。しかも、自分の肉体を担保として差し出すという無謀ぶり、なりふりかまわない度胸の良さは、まさに本書のタイトルを髣髴とさせるものがある。

 はたして、百子は叔父一家への復讐を貫徹させることができるのか。手に入れた洋裁店を基点に、株やファッションショーなど、果敢に大きな世界へと乗り込んでいったその先に、何が待ちかまえているのか。娯楽産業の第一人者を目指す梯二郎の野望は達成されるのか。今後の展開として気になる要素はいくつもあり、そうした純粋な物語の展開を読んでいっても充分に楽しめる作品ではあるが、こと百子と梯二郎との関係を考えたとき、そこにはけっして単純ではない感情の揺れ動きがある、という点にこそ注目すべきである。

 本書の最初のほうに女性たちが何度か口にする「やになっちゃう」というセリフが象徴するように、百子は女性としての容姿に恵まれていながら、自分がそんな女であること、そして女であるというただそれだけの理由で、男のように何か大きなものを勝ちとっていくという道を閉ざされているという事実に辟易しているところがある。「愛がなければ生きていけない」女になんかなりたくない。だが、それ以外に自分にどんな価値があるのかも漠然としている。そんな彼女にとって、同じように過去にどん底の生活をおくり、屈辱の歴史を共有する梯二郎の存在は、まさに彼女の目指すべき目標であったとしてもおかしくはない。いっぽうの梯二郎のほうも、百子のひとりの人間としてのその苛烈さ、上昇していこうとする心意気に、それまでの女性にはない何かを感じとる。だが同時に、梯二郎はひとりの男性として、百子の女性としての要素に欲望を感じずにはいられない。

 男と女が、はたしてそうした性差を超えた関係を築いていけるのか、というテーマが、そこにはたしかに見え隠れしている。だが、百子がその第一歩として、自分の女性としての魅力を使った時点で、そのテーマは崩壊する運命にあったとも言える。か弱い女性であることを嫌悪しながらも、成り上がっていくために何よりも女としての武器を駆使して梯二郎に取り入らなければならないという矛盾は、どれだけ彼女が正当化しようとしても払拭できない事実として残るし、それは男性である梯二郎のほうも同様である。金と愛欲渦巻く本書であるが、金の単純さとくらべて、人間が抱く愛欲というのはこれほどまでに複雑で、割り切れないものなのかということに驚かされる。むしろ、女性として男性を愛して裏切られるという展開のほうが、はるかに理解しやすいものがある。

 生まれた瞬間から裕福な家庭で育った上流社会の人間を嫌悪し、ただ運命にしたがって、努力することを放棄した下流社会の人間を嘲って、自分という人間がもつ才覚も知恵も、そして肉体そのものさえも利用して、栄光をつかむための大きな賭けに出た男と女――はたしてその賭けの結果がどんなものなのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2007.11.27)

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