【早川書房】
『黒猫の遊歩あるいは美学講義』

森晶麿著 



 ミステリーとは、そもそも何らかの不可解な状況が提示され、その謎を探偵役の人物が解き明かしていくことで成立するジャンルである。たとえば殺人事件であれば、密室や首なし死体、あるいはアリバイ工作やダイイングメッセージなど、じつに多彩なパターンの謎があるわけだが、逆に言えば、もし誰ひとりとして現前するはずの謎を謎として認識することができなければ――その謎を不可解だと感じなければ、それはもはや謎でもなんでもない、ということになる。たとえば密室というものは、その中で死んでいる人物が自殺したという状況を生み出す装置であるが、その死因のなかに他殺を思わせる要素があって、はじめて「不可解」だという認識が生まれてくることになる。

 誰かを殺さなければならない理由があり、かつその犯人が自分であることを悟られないようにするためには、いわゆる完全犯罪を成立させなければならないわけだが、もしもっとも理想的な完全犯罪があるとすれば、それは「不可解さ」がまったく存在しない犯罪、つまり、誰が見ても死因がひとつに一致するような犯罪ということになる。だが、もしそんな犯罪が成立してしまったら、探偵の活躍する余地はなくなってしまうし、そもそもミステリーとして作品が成立しなくなってしまう。

 これらのことを考えていくと、ミステリーにおけるトリック、謎というものは、犯人と探偵とのコミュニケーションの場であると捉えることができる。「謎」という形で犯人が提示する「問いかけ」に対して、探偵だけが正しく「問いかけ」として受け止め、「解明」という形で返事をする――この場合、殺人事件の犯人は、そのトリックもふくめてすべてが解明されることを心のどこかでは望んでいる、ということになるのだが、では、そうした「謎」を成立させた犯人側の背景に、どのような心的作用や思想がはたらいていたのかに迫ることこそが、謎を読み解くための鍵となるはずである。謎を純粋な「現象」として還元することでその真相に迫るミステリーといえば、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』を代表とする矢吹駆シリーズが思い浮かぶが、今回紹介する本書『黒猫の遊歩あるいは美学講義』もまた、そうした方面に特化した形のミステリーだと言うことができる。

 ベルクソンがいう図式とは、あらゆるイメージの原点のようなものである。例えば、作曲家なら、あるソナタを作ろうというときの彼の頭の中に浮かぶ原風景がそれだ。――(中略)――したがって、黒猫が描き手の図式を探れと言う場合、それは現象から作り手の原風景へと到達せよ、という意味になる。

(『月まで』より)

 全部で六つの作品を収めた連作短編集という形をとる本書を、もっとも特長づける要素のひとつとして、「黒猫」というあだ名の登場人物が挙げられる。フランスの哲学者ベルクソンの思想をもとにした美学的観点を諸芸術の研究に応用するという奇抜な論理を展開し、わずか二十四歳の若さで教授職に就いたという天才青年である彼を探偵役に、その付き人として彼と行動をともにすることになった大学院生の女性を一人称の語り手として、現前する謎の真相を解き明かすというのが本書のおおまかな骨子であるが、あくまで美学的観点をもって謎を推理し、その結果導き出される真相についても美的であることを要求するこの探偵役の人物は、それゆえにその推理の過程においても、いっけんすると何の関係もなさそうな学術的話題をもって謎にアプローチしていくという方法をとる。

 彼らが解明すべき謎としてとりあげるものについても、ともすれば謎として扱われないような特殊性をもつものが多い。なかには人の死がかかわる謎もないわけではないが、それにしたところで刑事事件的な要素が絡んでくることは皆無である。たとえば『頭蓋骨のなかで』では、映画監督の柄角が溺死体として発見されるのだが、警察発表によれば大量の睡眠薬を飲んだうえでの自殺として処理されている。つまり柄角の死に事件性はない、ということになるのだが、では何が黒猫たちの興味をひくことになったのか――言い換えれば、どのような要素が「謎」として黒猫たちに捉えられることになったのか、という点こそが、本書を評するさいの重要なポイントとなってくる。

 たとえば、引用文としてその一部を上述した『月より』では、「でたらめに描かれた地図」というのが謎として提示される。それは語り手の母が所有していたものであり、その地図が現実の町を描いたものでないことは語り手自身にもすぐに見抜くことができるものだったわけだが、もし語り手や黒猫以外の第三者がこの地図を見つけたとしても、彼らにとってそれはただの地図だという認識を超えることはないだろうと推測することができる。この書評の枕でも述べたように、「不可解さ」が見えないかぎり、謎は「謎」として機能することはない。いっけんすると、ただのいたずらとして描かれたのだろうと結論づけられてしまいそうな、でたらめの地図――だが、そこからいったん「地図」という概念を取り払い、あるがままの「現象」として捉えなおしたときに、そこにどのような特徴が見えてくるのかを、探偵役の黒猫は読み解いていく。

 彼が推理の過程で持ち出してくるさまざまな学術理論――そしてそれは、しばしば語り手が研究課題としているエドガー・アラン・ポーの著作とも結びつくことになる――は、ともすると非常に回りくどく、事件の謎とはまったく関係のない方向に進んでいるかのように思えるのだが、黒猫にとって書き手の原風景に迫るために必要なものであり、それが彼にとっての最短距離だということになる。「謎」の真相は明らかにされ、ささやかな事件の幕は下ろされる。だが、その謎がそもそも「謎」として捉えられることになった経緯の特殊性も相まって、私たち読者が提示された真相をまのあたりにして感じるのは、謎が解かれたというカタルシスよりは、むしろ謎がさらに深まっていくかのような感覚である。なぜなら、黒猫の「美学講義」によって明かされるのは、人間の心理というものがいかにややこしく、また複雑なものであるかという一点に集約されるものであるからだ。

 自分のなかに何らかの想いがある。たとえば、誰かのことが好きだという想いがあるとして、ならそれを相手に伝えればいい、と言われればたしかにそのとおりではあるのだが、いろいろな事情ゆえにそうできないことのほうが、じつは多かったりするのが人間社会である。だが、そうした想いをいつまでも処理できないままにしておくと、いつのまにかその想いが変容したり、あるいは消えてなくなったりすることもある。それはともすると、自分自身が何を考えているのか、何が好きなのかといったことまでわからなくなることにもつながるのだが、それゆえに人は、意識するしないに関係なく、他人には悟られないような方法でそうした想いを表現してしまう。黒猫と語り手の大学院生が「謎」としてつかむのは、そうして隠されたり秘められたりした人の想いであり、だからこそその真相はこのうえなく人間臭いものとして映る。

 学術研究と人の想いというものは、遠いようでいて、じつは近いものであることを示してみせる黒猫の「美学談義」――肝心要のふたりの距離がどうなるのか、まだどこか定まらないようなところもあるふたりのお互いへの気持ちもふくめて、人間の感情の繊細さ、その機微について、ぜひとも感じ取ってもらいたい。(2013.01.28)

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