【新潮社】
『クラインの壺』

岡島二人著 

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 私がはじめてヴァーチャル・リアリティというものを体験したのは、自動二輪の免許をとるために教習所へ通っていたときのことだったから、今から6年ほど前の話になる。その教習所では、免許取得に必要な単位のなかに、ヴァーチャル・リアリティ教習というものがあり、受講者は必ず何回かはこの教習を受けなければならなかったのだ。

 装置そのものは、床に固定されたバイクが一台と、頭にはめるゴーグルという単純なものだったが、ゴーグルをはめてバイクにまたがると、そのゴーグルのモニターには仮想現実の町が広がり、私はバイクを運転するライダーとして、その仮想現実のなかにいた。私が後方確認すれば、モニターのなかの視界もそれに合わせて景色を変えるし、アクセルを回せば景色も後ろへと流れていく。バイクのメーターやバックミラーもちゃんとついていて、速度が上がればメーターも上がるようにできている。もちろん、技能教習で現実にバイクを運転することのリアリティに比べればお粗末な、あくまで視覚と一部の聴覚のみをトレースするだけのものではあったが、少なくともこのヴァーチャル・リアリティの世界であれば、転倒しても自分の体が傷つくわけではないし、たとえば停車中のトラックの陰から飛び出してきた歩行者を撥ねてしまったとしても問題ない。そう、このヴァーチャル・リアリティ教習というのは、現実のバイクの運転ではなかなか遭遇しない非常事態をシミュレートしたり、かなり無茶なバイクの運転をあえてさせたりするための装置であり、そういう意味ではなかなか貴重な体験だったと今では思っている。

 本書のタイトルにもなっている『クラインの壺』とは、イプシロン・プロジェクト研究所が極秘で開発しているヴァーチャル・リアリティ装置の名称である。人間の五官、つまり視覚や聴覚だけでなく嗅覚・味覚・触覚にいたる、人間が感じるありとあらゆる感覚の入出力を詳細にわたって制御し、現実世界と寸分たがわぬ仮想現実を実感させるための装置――上杉彰彦がこの研究所とかかわりをもつようになったのは、彼がアドベンチャー・ゲームブックの原作公募のために書いた作品「ブレイン・シンドローム」を通じてだった。公募作品の規定からはずれてしまったために失格となってしまった作品ではあったが、その内容は研究所が求めている疑似体験ゲームにふさわしいものである、という研究所側の話に乗せられた彰彦は、やがて完成間近となったその全感覚シミュレーションゲームの原作者として、そのゲームのモニター役をさせられることになる。

 だが、テストが進むにつれて、彰彦は徐々に何かがおかしいことに気づくようになる。自分がどこで仕事をしているのか知らないはずの家族からかかってきた電話、いっしょにテストを受けていた高石梨紗の突然の失踪、その行方を追っている彼女の友人との微妙な話の食い違い、そしてゲームのなかで何度も響いてくる、警告の声――いったい、イプシロン・プロジェクトとは何なのか、そして「クラインの壺」の本当の使い道はどのようなものなのか……。

 現実世界とまったく見分けのつかなくなる仮想現実をモチーフとした作品は、たとえば映画「マトリックス」シリーズをはじめとして、今ではけっして珍しいものではない。むしろ、発表されてから年月が経ってしまっているぶん、たとえば「アドベンチャー・ゲームブック」といった死語に近い単語が出てきたり、「テラ・バイト」単位のコンピュータの存在に驚いたりするという意味では、いくぶん古臭く感じられる部分もあることはたしかだ。だが、そうしたマイナス要素を差し引いたとしても、なお本書が読者を惹きつけるものがあるとすれば、それは本書に出てくるヴァーチャル・リアリティ装置「クラインの壺」がどのようなものであり、ひとりの人間をどのようにして仮想現実へと導いていくのか、という詳細な説明を、まったく手を抜くことなく表現しているという点である。

「――この手袋には特殊な液体が封入されています。微弱な電圧を掛けることによっていろんな状態に変化する液体です。固くなったり柔らかくなったり、熱を帯びたり、逆に冷たくなったり。それが上杉さんの皮膚を刺激する。まるで水の中に手を入れたような感覚を作ることもできれば、実際には存在しない何かをつかませることもできる」

 こうした特殊な装置に全身を包むことによって、自分がまさに主人公としてゲームの世界を自由に行動することができる――そもそも私もゲームについてはそれなりに年季の入っているほうなので、現実の自分ではない何かを完全に演じることができる世界の存在は大きな魅力である。いや、たとえゲームとは無縁に育った人であったとしても、そんな装置があったとしたら、きっと誰もが夢中になってしまうに違いない。だが、あまりに完璧な仮想世界の存在は、逆に現実世界との境界をかぎりなく曖昧なものにしていく危険性をともなっている。

 そもそも私たちが感じる五官からの刺激も、脳が受け取った電気信号にすぎないことを考えてみれば、私たちが現実だと思っていることが、じつは脳によって変換された情報にすぎす、ときによってはたやすくだまされてしまうたぐいのものであることは、理屈で考えばわかることではあるし、前述したように仮想現実の世界、そして現実世界とのかぎりあいまいさを押し出した、ある種の恐怖をあつかう作品は、今ではけっして珍しくはない。本書のもっとも大きな特長は、とにかく現実世界におけるヴァーチャル・リアリティ装置を詳細に表現している点であり、さらにその「クラインの壺」の謎をめぐるミステリーという体裁をとることによって、ミステリー作家の作品として本書を読んでいる読者に対して、「ミステリー」という仮想現実を体験させているのだと思い込ませようとしている点でもあるのだ。

 クラインの壺――内側と外側の区別がつかない位相幾何学的な超立体……。

 事件が起こる。主人公が情報を集め、誰かと仲間になったり、思わぬ妨害にあったりしながらも、集めた情報をもとに推理をはたらかせて犯人に、あるいは真相に近づいていく。それがミステリーの世界であるが、そうした情報のすべてが、もしヴァーチャル・リアリティによって擬似的に作り出されたものであったとしたら――本書のラストであきらかになる結末は、ミステリーとしてはあるいは反則技に近いものがあるのかもしれないが、ミステリーの世界を、そして私たちが生きる現実世界そのものを根底からくつがえしてしまうような、アクロバティックな意欲作であることは認めなければならないだろう。(2004.04.07)

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