【祥伝社】
『刻まれない明日』

三崎亜記著 



 何かを変わらずに続けていくというのは、けっして簡単なことでも、楽なことでもない。とくに続けていく「何か」が、ある人から別の誰かへと引き継がれていくときには、どれだけ注意を払っていたとしても、そのくり返しによって伝えるべき大切な要素の一部が抜け落ちてしまったり、あるいは意図しない別のものに変容してしまったりすることがどうしても起きてしまう。
 私たちが生きるこの世界は、自分自身の存在も含めて常に変化しつづけていく宿命にある。変わらないものなど何ひとつないし、昨日とまったく同じ一日というものもありえない。たとえ、何も変わらないように思えても、目に見えない小さな部分での変化というのは、少しずつ進行しているものだ。そういう意味では、何かを永遠に継続していくというのは、多分に不自然なことだと言うことができる。

 物事には必ず始まりと終わりがあるように、どれだけ続けたいと思っていることであっても、それが基本的に不自然なことである以上、いつかは終わらせなければならない時というのがやってくる。だが、そのときに重要なのは、その「終わり」が別の何かの「始まり」へとつながっていくものであるかどうか、ということだ。そしてそのとき、何かを意図的に「つづけて」いくのではなく、ひとつの必然として「つづいて」いくという意識が生まれてくる。

 彼の仕事は、単に道を守るだけではない。道を守ることによって、人々の出遭いやつながりすべてを守っているのだ。
 自分が失ってしまったつながりも、彼と歩くことで取り戻せるのだろうか?

 本来であれば、ずっと先までつづいていくはずの「つながり」が、ある日を境に何の前触れもなく、突如として断ち切られてしまうという理不尽な現象――本書『刻まれない明日』は、十年前にとある町を襲った、住民たちの消滅をめぐる物語であり、それは同著者の『失われた町』のなかで起こった消失と同様、その原因も、対処方法も解明されていない事象でもある。人々はその事象に対してほとんど無力であり、またその事象に巻き込まれた人々は死んだわけではなく、ただ「失われた」ということであって、それゆえに残された人たちは、ただその出来事を受け入れて生きていくしかないという状況は共通したものである。だが、『失われた町』における住民の消滅がある種の禁忌として、国の機関が残された人々に極端なまでの情報統制を強いていたのに対して、本書の場合、消滅したはずの人々の、たしかにその町にいるという痕跡が、町のあちこちで見受けられており、町の人たちもまたその現象を、消えてしまった人たちとをつなぐかすかな希望として受け止めているという違いがある。

 たとえば、第一章の「第五分館だより」では、今は存在していないはずの図書館分館が利用され、その貸し出し記録が登録されつづけているという現象が起きているし、第二章の「隔ての鐘」は、一部の人にしか聴こえない鐘の音にまつわる物語が展開していく。他にも、ありもしない路線バスのライトが見えたり、消えたはずの人々の名前でラジオ局への投稿があったり、いるはずのない蝶の飛ぶ姿を見かけたりと、容易に説明のつけられない不思議なことが現実のものとして起きている。そしてそれらの現象は、十年前に住民の消滅が起こった町の一区画――現在では「開発保留地区」と呼ばれ、まるで事件の痕跡すらも消し去ろうとでもするかのように人々を隔てている場所に、かつて存在していたものと関係があるのだ。

 前作にあたる『失われた町』を読んだ方なら覚えているかもしれないが、町の人々が消滅するという現象は、通常であれば町そのものを丸ごと飲み込むほどの規模であり、失われる人々も数万という単位におよぶ。本書の場合、消滅したのはあくまで町の一部にいた人たちであり、それゆえに町そのものの機能が失われたわけでもなく、人数も3095人という単位にとどまった。だが、むしろそれゆえに、失われた部分とのつながりが理不尽に断絶してしまったという感覚は、より現実的なものとして読者に迫ってくるものがある。なにより、消滅した町には、消えてしまった人々と何らかの関係を築いていた人たちがまさに生きて生活している。どこにも存在しないものの痕跡が色濃く残るがゆえに、理不尽にその関係を断ち切られたという思いになかなか区切りをつけることができないままに。

「忘れたいこと、忘れたくないこと。自分でもわからない両方の気持ちの間で、結論を出すことができずにうろうろしているだけだよ。私もね」

 本書の大きなテーマとしてあるのは、人と人とのつながりにおける「終わり」と「始まり」の区切りである。住民の消滅という事象によって、しかるべき形で終わらせることのできなかった関係――それこそ十年にもわたって、きわめて不自然な形でつづけられてきた関係に、いかにして決着をつけていくのか、という観点から本書をあらためてとらえたときに、常にその町の外部からやってきた人たちの存在が、物語の重要な転換点として作用していることに気づく。会社の上司との不倫がバレて、都心から逃げてきた女性、居留地から音の歪みを正すためにやってきた少女、病に侵され、誰の思い出にも残らず消えることを望んでいた男性――彼らは、いずれもそれぞれに問題をかかえながらも、断ち切られたつながりに縛られている町の残された人たちと接触し、しかるべき形でその関係を終わらせる役割をはたしている。

 それはけっして破壊的な終わらせ方ではない。同じ人としての、まさに住民の消滅とは対極に位置する形での終わらせ方である。そして、そうした人たちすべてを貫く軸として登場するのが、本書の最初と最後にそれぞれが主体として登場する「歩行技師」と呼ばれる職業の男、幡谷さんと、十年前の事件で唯一「消え残った」女性である沙弓だ。

「歩行技師」とは、道路という概念を歩くという行為によって固定化する技術をもつ人のこと。それは逆に言えば、本書の世界において道路とはただたんにそこにあるだけでは道路たりえない、ということでもある。そして道路というのは、たどっていけばかならずどこかに行き着くものだ。だが本書のなかでは「あの事件」としか呼ばれない現象が起きた「開発保留地区」において、幡谷さんの技師としての歩みもまた理不尽に遮られてしまう。道は確かにつづいているはずなのに、じっさいの道はどこにも存在しない――それはそのまま、事件に巻き込まれたにもかかわらず、そのときの記憶をいっさい失っている沙弓にも、そしてその事件によって失われた人との関係を断ち切られた人たちにも共通してあてはまる理不尽さでもある。

 本書はその理不尽な現象に対する、人々の精一杯の抵抗を描いた作品でもある。現象そのものは原因不明で、どうすることもできない。だが、十年という長い時間をかけて、しかるべき形で人々の心に決着をつけることはできる。それは、残された人たちの思いであり、またその人たちと新たな関係を結ぶことを決意した人たちの思いでもある。古き道はその役割を終え、跡形なく消えうせてしまっても、その道を歩いた人たちの思いは消えずに残り、あらたな「始まり」としてつながっていく。その思いの強さは、なにものにも変えがたいものとして、きっと読者の心に何かを残していくに違いない。(2010.02.26)

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