【角川書店】
『きっと君は泣く』

山本文緒著 



 容姿が美しい、というひとつの特徴が、この世で生きていくうえで大きなプラスとなってはたらく、と考えている女性は多い。もちろん、男性である私に女性のことがわかるなどと言うつもりはないし、また男性だって、たとえば『ヅラが彼女にバレたとき』といった本を読めばわかるように、自分の容姿については意外とナイーヴな一面をもっていたりするのだが、もし容姿の美しさが、人間の価値とは無関係だと言うのなら、なぜこの世にはエステやダイエットに関する情報が溢れ、膨大な数の化粧品が生み出され、あまつさえ整形手術を受けたり、拒食症や過食症に悩む女性が増えているのだろうか。
 美しい、というのは、この社会ではたしかにひとつの価値観であり、美貌に恵まれた者が、容姿の醜い者と比べていろいろな点で得をしている、というのも事実ではある。だが、重要なのはそれがすべてではない、ということではないだろうか。

 本書『きっと君は泣く』に登場する桐島椿は、自他ともに認める「容姿端麗」な23歳の女性である。コンパニオン専門の派遣会社に所属し、とびきりの営業スマイルで周囲に自分の美貌をアピールする彼女は、しかし美しいということが、唯一絶対の価値観だと信じて疑っていない、という点で、非常に傲慢で、自分勝手な性格ブスの女性として描かれている。なぜなら、彼女は自分が「きれいどころ」であることを誰よりも自覚しており、美しさこそがすべて、という価値観のなかで、彼女は最強の地位を占めてしまっているからだ。

 私が誰と寝ようが私の勝手だ。課長に奥さんがいようがいまいが、そんなことは知らない。誘われたとき、寝てもいいと思ったから寝たのだ。そんなことは、仕事とは何も関係ない。誰からも責められるいわれはない。

 美貌ゆえに男が寄ってくる。美しいからこそ、男たちは自分を褒めたたえ、いつでもチヤホヤし、いろいろなものを貢いでくれる――自分の容姿が能力であり、才能であると信じて疑わない椿の傲慢な性格は、ここまで徹底しているとかえって気持ちの良いものを感じさせるが、当然のことながら、同姓たちの間ではすこぶる評判がよろしくない。たとえ口先だけであったとしても、自分を卑下しない代わりに、あからさまに他人を卑下することをためらわない、ひたすら自分に正直な椿にとっての美貌とは、いったいどんな形を成しているのか。

 人が何に美しいと感じるのか、ということを考えたとき、美しさというのは相対的なものであって、絶対的なものではない、ということがわかってくる。だが、ひとつだけ言えるのは、えてして人間の美しさは「若さ」と強く結びつく傾向が強く、だからこそ自身の若さにしか価値観を見出せない女子中高生たちの援助交際が問題になったりするわけだが、椿にとっての「美しさ」の原点は、「若さ」とはまったく無関係なところにある。それは、彼女の祖母が持つ美しさであり、椿にとってはそれがすべてだったのだ。

 私は祖母がこれほどまでに美しい人だとは知らなかった。もちろん祖母は年をとっていた。顔には皺があり、首筋には弛みが見える。けれど祖母の美しさは、そんなことで損なわれる種類のものではなかった。ちょっとでも触ったらすぱっと手が切れてしまいそうだ。あれは刃物の美しさだ。

 威厳と、張りつめたような老成の美――しかし、本書の中で、椿の自慢だった祖母は、ある事件をきっかりにぼけはじめてしまう。椿にとって不幸だったのは、自分の理想であり、そっくりだと言われることに誇りを持っていたはずの祖母がぼけたこと自体ではなく、祖母の美が、まさに外見上のものでしかなかった、という事実をまのあたりにしながら、そのことをなかなか自分の身に置き換えて想像することができなかった、ということに尽きる。だが、常に自分のこと、それも、自分の理想像にしか目を向けてこなかった彼女に、他人のことを自分のことのように思いやる想像力が欠如していたとしても、とくに驚くべきことではないはずだ。

 じっさい、祖母がぼけ、それまで羽振りだけはよかった父の会社が倒産してしまってからの椿は、その行動の端々に心の卑しさがにじみてるようになってしまう。自分は美人なのだから、幸せにならなければならないし、すべての人はそのために存在するのだ、という強迫観念じみた自意識と打算で、医者の卵を誘惑したり、また保険と称して別の男性たちにも接近したりする椿の姿は、正直言ってとても美しいとはいえない。いや、そもそものはじまりから、はたして椿を美人だと思う読者が、どれくらいいるか。

 本書には、容姿が醜くてしかも太っており、「大魔人」と呼ばれている魚住という看護婦が登場するが、椿とは対極をなす彼女は、美しくなるための努力をほとんど放棄してしまっている。だが、それでも好きになった人のために化粧をはじめたり、どんなに嫌な人間にも、助けを乞われれば力を貸さずにはいられなかったりするところなど、まだしも可愛げがあると言えよう。

 椿は自分を好いてくれない人間、自分にとって利益をもたらさない人間には、たとえ過去においてどれだけ親切にされていても、冷たく突き放してしまう容赦のなさがある。それは、彼女が持つ価値観の強さ、ゆるぎのなさを示すものであるが、それゆえに、その支えが崩れ去ってしまうと、その強靭な精神もあっけないほど脆かったりする。本書を読んでいると、つくづく人間というのは弱いものだ、と思わずにはいられない。そして同時に考えるのだ。外見ではけっしてとらえることのできない、人としての美しさとは、どういうものなのだろうか、と。

 気のおけない男どもがアルコールの力で結びつくと、たいていは女の話になる。どんなタイプの女性が好きか――胸の大きさや髪の長さ、肌の色、背丈など、人によってその好みは異なってくるが、私も含めてたいていの男たちは「きれいどころ」が大好きだったりする。だが、不思議なことに、そこから一歩踏み込んで、生涯の伴侶として女性を選ぶとき、「美貌」という要素は充分条件であっても必要条件ではなくなってくる。おのれの美貌を磨くために、人の知らないところで苦労と努力を積み重ねる世の女性たちは、そうした事実をどこまで知っているだろうか。あるいは、知っていてなお、きれいであることを目指さずにはいられないのか。

 美しい容姿をたもつことと、人としての幸せとは、けっしてイコールでは結びつかない。しかし、それでもなお、あなたのなかに「きれいになりたい」という思いが渦巻いているとしたら、それは強さではなく、むしろ弱さではないかと疑ったほうがいいのかもしれない。男でも女でも、男女間の微妙な関係のなかで、本書のタイトルのように「泣きを見る」者は、たいていが自分だけの世界に閉じこもってしまい、相手の立場を想像することのできなくなった人間だったりするのだから。(2002.07.03)

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